このままで



物に執着しない性質なのは理解していた。自分にとって必要のなくなったものは、迷うことなく処分してしまう。それがどんなに貴重なものであろうとも、それがどんなに他人にとって大切なものであろうとも。迷うことなく必要のないものとして、捨ててしまう。とても簡単に、捨ててしまう。本当に大切なもの以外。


――――ずっと、このままで。このままでいたいと願う。ただそれだけだった。


「…お前は、どうしてこう…」
溜め息交じりに呟いた言葉には、明らかに呆れたという語尾が混じっていた。それを証明するようにあまり顔の筋肉を動かさない相手の眉毛が微妙に下がっているのが分かる。それがひどく可笑しくて無意識にロベルトは口許を緩めたら、益々不機嫌な声が飛んでくる。
「何がおかしいんだ、ロベルト。大体お前は何時も何時も……」
この先何を言われるかは、嫌という程に分かっている。もう既に日常の一コマとして自分の中に存在しているから。そう、もうこれは自分にとっての『日常』だ。
「すまないライデン、何時も」
「そう思っているのなら、少しは態度を改めたらどうだ。大体お前はどうしてそんなにも抜けているんだ」
明らかに不機嫌で、イライラしているのが分かる。それでも手を止めたりしない所が、ロベルトには可笑しく嬉しいものだった。シャツの掛け違えたボタンを、直してくれるその手が。
「気をつけているつもりなんだけど…」
「その言葉は聞き飽きた、ロベルト」
律儀に掛け違えたボタンを全て直すと、改めてライデンはロベルトの顔を見つめる。その顔はロベルトの想像と一寸の狂いもない、何時もの無表情で不機嫌な顔だった。けれども、知っている。自分は知っている。この顔が―――
「でもライデンがこうして何時も直してくれるのが嬉しいから、つい気をつける事を忘れてしまうんだ」
「―――なっ…」
この顔が、どんな風に変わるのかを。普段の気真面目で無表情なその顔が、こうやって自分にしか分からない変化をする事を。こんな風に。
「…お、お前は…何を言って……」
こんな風に微かに目尻を赤くして、明らかに声が動揺するのを。そして照れ隠しのために益々顔が無表情になる事を。
「私はライデンに構って欲しいから、きっと抜けているんだ」
「何だっそれは…そんな意味不明な事を言ってもいい訳にならんぞ」
「いい訳じゃないよ」
けれどもこうして距離を縮めればすぐに分かるから。触れる前からでも分かる、胸の音が。頑張って見せる無表情の下にある動揺が、胸の鼓動が、全部分かるから。
「本当の事だよ。私はライデンに何時も構って欲しい」
手を、伸ばす。その髪に触れればびくんっ、と一瞬身体が強張るのが分かる。こうやって触れるのは『日常』の事になっているのに、未だにこんな反応をよこす相手がどうしようもない程に可愛く思えて。
「そして私もこんな風に…構いたい」
可愛くてどうしようもなくなって抱きしめたら、大きなため息を付かれて益々表情が硬くなるのが分かる。けれども。けれども、逃げなかった。この腕の中からは…逃げなかった。


多分執着という感情に欠けているのだろう。何事にも合理的に進める性格なのだろう。そんな事は長年の付き合いで嫌という程に理解している。だからこそ。だからこそ、こんな風に相手にとって非合理的な存在でありたいと思った。嫌でも目について、構わずにはいられない存在に。目を離す事が出来ない存在に。
「―――こんなんで私を懐柔させられると思うなよ…ロベルト」
そう言いながらも無意識に体重を預けてくる所が堪らなく愛しい。抱きしめれば分かる身体の熱も、どうしようもない程に可愛くて仕方ない。
「そんなつもりはないよ。ただ抱きしめたかっただけ」
言葉通りに力を込めて引き寄せれば、腕の中の身体が硬直するのが分かる。それを宥めるように髪にキスをしたら途端に力が抜けたように大人しくなった。それがひどく、可笑しい。
「ライデン、顔上げて」
俯く相手にそっと耳元で息を吹きかけるように囁く。その途端、視界にもはっきりと分かるほどに耳が赤くなるのが分かる。同時にまた、身体が硬直するのも。
「―――駄目だ。ロベルト」
「どうして?」
口許に笑みが浮かびそうになるのを必死にこらえながら、何時ものように尋ねてみた。けれども返事は返ってこない。分かっている、今その顔が耳元と同じように紅く染まっている事は。けれども、そんな顔も見たいと思う自分は我が儘なのか、欲張りなのだろうか。それとも、当たり前の気持ちなのだろうか?
「見たい、見せて」
我慢出来なくてその頬を手のひらで包み込むと強引に顔を自分へと向けた。そこには予想通りの…真っ赤に染まった顔があって。
「馬鹿っ…何するっ…!」
その顔があまりにも可愛くて堪らなくなったから、そのまま。そのままキスをした。軽く触れるだけにするつもりだったのに、我慢出来なくなって恋人の口づけにすり替える。
「…んっ…んんっ……」
戸惑う舌を絡め取り、しばらく口中の弾力を楽しみながら深く唇を貪った。硬直した身体が解け、そのまま体重を預けてくるまで。
「…はぁっ…ぁっ……」
名残惜しげに唇と唇が唾液の糸を引きながら離れてゆく。それをぺろりと舌で舐めれば、その口からは甘い吐息が零れる。それすらも欲しくなって、またひとつキスをした。触れるだけの、キスを。
「…朝からこんな…お前というやつは…っ……」
唇が離れてしばらくしてからやっと意識が戻ったとでも言うように、恨めしげな声で訴えてくる。けれどもそれすらも逆効果でしかない。だってそんな潤んだままの瞳で見上げられてしまったら。
「私のせいじゃない。ライデンが可愛いいから悪いんだ」
「――――私は可愛くなど決してない」
「私にとっては可愛いんだ。大好きだよ、ライデン」
にっこりと笑顔で悪びれずに言えば、困って黙ってしまうのは分かっているから。そして何も言えずに俯いてしまうのも。

――――きっと誰よりも、私は君の事を分かっているから。


このままで。ずっと、このままで。
「大好きだよ、ライデン」
一緒にいよう。一緒にいたい。
「大好きだよ」
お前にとっての『捨てられないもの』になりたい。


お前にとってのどうやっても捨てられない存在になりたい。無駄でも合理的でなくても、捨てる事が出来ない存在になりたいから。


「…全くお前には呆れる…そんなんだから…目が離せん……」