――――剥がれ落ちるお前を、拾い上げる俺の手は。この手はどうしようもなく不器用だった。
喉の奥から吐き出された嗚咽と悲鳴を、ただ受け止める事しか出来なかった。それしか出来なかった。
「…ハーディン様…ハーディン様っ!!…俺は…っ……」
どんな慰めの言葉を掛けようとも、どんな救いの手を述べようとも、きっとお前には届かない。どうやっても、届かない。それでも。
「―――ウルフ……」
それでもその手を、その身体を、その瞳を。ばらばらに剥がれて壊れゆくお前を、引き上げようとする俺が愚かなのか。それとも、どうしようもない程に俺が憐れなのか。
「…俺は…俺はっ…!」
その先の言葉を聴きたくなくて、そのまま。そのまま噛みつくように口づけた。この口の中に閉じ込めたとしても、どうにもならない事は嫌という程に理解していながらも。
全てを剥き出しにして、全てを吐き出したならば。ばらばらに壊れて崩れて、全部がなくなったならば。そうしたら楽になれるのか?そうしたら許されるのか?
正しい選択を選んだとはどうやっても思えなかった。けれども最良の選択をしたつもりだった。誰の胸にも決して消える事のない懺悔と後悔を植え付けながらも、それでも救われる道を選んだ筈だった。未来を選んだ筈だった。けれども。
「―――ウルフ…俺にはお前が必要なんだ……」
けれどもその選択こそがお前の未来を奪った。お前の生きる意味を、奪った。あの方とともに生き、あの方の為に死ぬ。迷いのないただひとつの道を奪ったのは他でもない俺自身だった。それでも。
「…お前が…必要なんだ……」
それでも願う。お前の生を、お前の命を。お前の存在を、ただ願う。それは俺自身のエゴでしかない。自分勝手な想いでしかない。それでも俺は。
「…お前が…必要…なんだ……」
生きていて欲しい。お前に生を感じて欲しい。あの人のいない世界でも、生きているという意味を知って欲しい。そしてほんの少しでもいい、気付いてほしい。お前がただここにいるだけで…生きている意味を感じる事が出来る存在がここにいるんだという事を。
願いはただひとつ。ただひとつだけだ。
「…ザガロ…俺は……」
ただひとつ、お前のしあわせを。お前の命を。
「…俺は…何で死ねなかった?…」
お前の存在を、お前の笑顔を。
「…何で今…こうして生きている?……」
――――ただひとつだけだ。他には何もいらない。もう、なにもいらないから。
重ね合わせた額から伝わる体温が生の証ならば、少しでも交わればいい。そうすればきっと少しだけ、救われる気がするから。
「俺が生きて欲しいと望んだからだ。それだけじゃ駄目なのか?」
こんなにも想いこんなにも願うこの気持ちが、きっと少しだけでも伝わるから。皮膚を通して、体温となって、心の奥にそっと。
「それだけじゃ駄目なのか?こんなにお前を思っても…駄目なのか?」
何が出来て何が出来ないのか。何を成して何が成せないのか。もがいて足掻いて、それでも選んだ道の最期に残った、ただひとつのものはこれだけだった。これだけなんだ、お前への想い…それだけなんだ。
「―――こんなにお前を…想っていても……」
俺にとって生きる意味が何時しかあの方よりもお前になっていた。だから俺はこうして『生』への道を進んでいる。後悔と懺悔と、その先にある未来を見つける事が出来た。未来を、見つめる事が出来る。
「…ザガロ…お前は…強いな……」
泣き顔で微笑うお前が儚くて、どうしようもない程に苦しい。誰よりも自信に満ちて、前だけを見ていたお前の剥き出しになった弱さが哀しい。
「…お前がいるからだ…お前がここに、いるからだ……」
伸びてきた指先を握り締め、このままきつく抱きしめた。壊れるほどに強く抱きしめたならば、この想いが伝わるだろうか?伝える事が、出来るだろうか?
誰にも気付かれないように少しずつ内側から壊れてゆく。ぱらぱらと剥がれてゆく。それを止める事が出来ない自分が苛立たしく、もどかしい。こうして抱きしめても、どんなに強く抱きしめても、壊れてゆく心を止める事が出来ない。
「こんな壊れた俺でもお前は俺を必要とするのか?」
陶器のような白い肌に雫の痕が伝う。空っぽになった瞳からは透明な涙が伝う事はなかったが、その代わりに口許に浮かんだのは歪んだ笑みだった。
「ハーディン様を想い女のように泣きじゃくる俺でも、必要だというのか?」
自虐的な笑みを出来る男ではなかった。何時も自信に満ち、前だけを見ている男だった。絶望とは一番無縁の場所に居る筈だった。なのに、今は。
「俺はお前に『生きて』欲しい。それだけだ。それだけなんだ」
壊れて剥がれて削ぎ落ちてゆく。内側から蝕まれ、剥がれ落ちてゆく。ぽろぽろと、零れてゆく。そして空洞になって抜け殻になったお前に、それでも俺は。
「――――馬鹿だな、お前は。本当に…馬鹿だな……」
「馬鹿でいい。それでもいい。どんな感情でもいい、お前が『ひと』として向けてくれるものならば」
それでも俺は注がずにはいられない。穴のあいた器でも、底が割れたグラスでも。お前が抜け殻にならないように、壊れた玩具にならないように。無駄なほどの感情を、呆れるほどの想いを。
「…本当に…馬鹿だな……」
剥がれ落ちてゆくもの以上の呆れるほどの想いを。溢れるほどの願いを。生きているという意味を。
『お前が必要なんだ、ウルフ。どんなになっても俺には必要だ』
足許に広がる漆黒の沼に引きずり込まれるこの身体を引き上げる腕がある。そこに飲み込まれれば楽になる事は分かっている。飲み込まれて取り込まれて全てを投げ出してしまえば楽になれる事は。――――それでも、引き上げる腕が、ある。
『―――生きろ、ウルフ…生きてくれ……』
お前の声だけが、お前の腕だけが、流されてゆく俺を引き止める。壊れゆく俺に最期の悪あがきをさせる。お前の声だけが。
――――それがしあわせなことなのか、ふこうなことなのかは、わからない。
それでもお前は呼ぶ。俺の名を呼ぶ。生きろと告げる、生きてくれと願う。この手に触れ、冷たくなった指先にぬくもりを灯す。それは暖かくて。とても、暖かくて。泣きたくなるほどの、優しさだったから。
「…本当に…馬鹿だ…な……」
抱きしめる腕の強さが、今はひどく心地よい。心地よくて、苦しくて、泣きたくなった。ただ、どうしようもなく泣きたくなった。