笑顔



多分、ひどく無邪気に微笑うその顔が見たかったんだ。ただそれだけだったんだ。


碧色の瞳が逸らされる事なく真っ直ぐに自分を見上げてくる。その時に気が付いた。少しだけ相手の方が、背が低いのだという事に。そんな事すら気に留めなかった自分が、今になってみれば滑稽にすら思えた。
「エルレーン、僕は君と友達になりたいんだ。本当にそれだけだよ」
自分以外の他人なんて全てが無能でどうしようもない存在だと思っていた。馬鹿どもの相手をするくらいならば独りでいた方がずっと楽だとそう思っていた。だから。
「物好きな奴だな、貴様は。俺などと『友達』になりたいなどと」
だから差し出された純粋な想いすら、下心や計算や損得などが渦巻いていると信じて疑わなかった。目の前の真っ直ぐな瞳すら…嘘だと思った。
「どうして?せっかく同じ学院に入った仲間じゃないか?共に学びあって、成長していけたらいいなって。だから僕は君と友達になりたいんだ」
「ふん、そんなもの俺には不要だ。大体ここにいる以上俺たちはライバルだ。それ以上でもそれ以下でもない。そんな甘ったるい感情に浸れるほど俺は暇ではない」
理由のない苛立ちが襲ってくるのを止められなかった。こんな瞳を向けてくる奴を俺は今まで知らない。それがひどく心地悪く落ち着きをなくさせた。
「…エルレーン…」
「とにかく俺に構うな。お前みたいな偽善者面したやつが俺は一番嫌いなんだ」
見上げてくる瞳が傷ついている。それはまるで捨てられた子犬のような瞳で。剥き出しの感情を見せてくる動物のような瞳で。だからだろうか。
「ふん、二度と俺の前に顔を見せるな」
だから、だろうか?こんなにも心に引っかかったのは。こんなにも、心に食い込んできたのは。こんなにも…記憶から消えないのは……。


ただ、笑って欲しかったんだ。あの時みたいに、何もなくただ笑顔でいて欲しかったんだ。


陰口を言われる事は慣れていた。距離も置かれる事も。だからこんな風に。こんな風に正面からぶつけられる悪意にも、慣れていた。
「―――優秀だかなんだか知らねーけど、生意気なんだよっ!」
「優秀じゃないから、大勢で来たのか?本当に頭の足りない輩だ」
「!!てめーふざけるなっ!!」
一歩前に出ていた奴が飛びかかってきた。それを寸での所で交わすと、別の奴に背後から頭を殴られた。その痛みに蹲った瞬間、周りを囲んでいた奴らが一斉に殴りかかってくる。
「優秀だか何だか言ってるけど、お前なんかよりもマリクの方がずっとすげーよ」
「お前なんかがエクスカリバーを手に入れられる訳ねーんだよ」
「ははははは、バーカ。死んじまえ。俺らを見下しやがって。お前なんか全然凄くねーんだよ」
肉体の痛みなど自分にとっては大した傷ではなかった。向けられた悪意も、所詮一人では何も出来ないザコどもの虚勢としか思えなかった。けれども。
「ウェンデル先生は、マリクにエクスカリバーをやるって言ってたぜ。ザマ―ミロっ!」
「――――っ!!!」
「うわっ!!!」
「うわぁぁぁっ!!!」
一瞬目の前が真っ赤になった。真っ赤になって、そして。そして次に気付いた時には、自分に暴力を振っていた相手が地面に倒れていた。ぼろぼろになって、倒れていた。
「…魔法…が…暴走した……」
呆然として呟いた自分の声がひどく遠くから聴こえてくる。まるで他人が呟いたもののように。けれども確かにその声を発したのは自分で、今自らの魔法のせいで廻りの人間を傷つけていたのは事実で。
「…そんな…俺は……」
魔道の道を究めると決めた時、どんな事があろうとも戦争以外の理由ではこの力を使わないと誓ったのに。戦い以外の理由ではと。私利私欲のためには絶対に誓わないと誓ったのに。それなのに。それなのに…。

『…だまされるな。他人は皆、お前を陥れる敵ばかり…妬み、恨み…それがお前の力の源…このわしのようにのう…』

違う、俺は。俺はそんなつもりはなかった。俺の力は常に正しいものに使われるべきもので。そう、正しく使われるべきもので…正しく……
「…俺は…おれ…は……」
何もかもが分からなくなった。先生がマリクにエクスカリバーを与えるとその言葉を聴いた瞬間に。何もかもが分からなくなって、視界が真っ赤になって、そして。そして…。
「…おれは…おれは…おれは……」
嫉妬なのか?妬みなのか?恨みなのか?マリクに対するこの感情は。そしてそれこそが、俺の『力』の源なのか?それが本当の俺、なのか?


――――それでも微笑うんだな。手を差し出して、微笑うんだな。ああ、そうだ。俺は確かにお前が羨ましかったんだ。そんな風に微笑える事が出来るお前が……。


『エルレーンよ、お前の持つその力を人のために使うのだ。よいな!』


頭の中の漆黒の闇が振り払われた瞬間、そこには何一つ変わらない笑顔があった。真っ直ぐで剥き出しの碧色の瞳があった。
「…エルレーン…今度こそ」
迷うことなく差し出される手のひら。それを素直に握り返せずに『ふん』とひとつ呟いてやったら、向こうから強引に握ってきた。その手はひどく、暖かくて。
「今度こそ…僕たち友達だよね」
暖かくて、優しくて。微かに薫る風の匂いが、そうなのだと思った。そうなのだ、と。お前がエクスカリバーを持つ事はずっと前から決まっていたのだと。お前という存在が生を受けた時から、きっと決まっていたのだと。
「―――マリク…お前のその……」
優しく全てを包み込む風は、全てのものを受け入れ、そして優しく包み込む風は。決して俺が持ちえるものじゃない。俺が手にしていいものじゃない。お前だけが。お前だけが、本当に手に入れるべきものだから。
「…真っ直ぐな瞳は…嫌いじゃない……」
「あ、ありがとう。ありがとうエルレーン」
剥き出しの笑顔が向けられる。無垢で純粋で、何の駆け引きもないその笑顔が。その笑顔だけが、俺を溶かした。俺を、溶かしてくれた。




だから、微笑っていてくれ。微笑っていてほしいんだ。本当に、俺は。俺は、それだけを。


ただ、それだけを。それだけを願った筈なのに。
「…ごめんね…エルレーン…僕は……」
なのに俺が奪った。その笑顔を、その透明な瞳を。
「…僕は…君を…傷つけていたんだ……」
俺が奪った。俺が壊した。俺自身が、全てを。


組み敷いた身体には無数の紅い痕が散らばり、力なく投げ出された脚からは吐き出した白い液体が無数に伝う。透明だった碧色の瞳から零れる雫は確かに自分が穢した跡だった。
「…ごめん…エルレーン…ごめん……」
内側から目覚めた欲望を止める術が分からなかった。分からずに、そのまま。そのまま欲望に身を任せ、その身体を犯した。ただ欲しくて、どうしようもなく欲しくて。
「…何故お前が謝る…どうして……」
加害者であるはずの俺に詫びるお前は、優しすぎるのか?それとも俺を憐れんでいるのか?両方なのか?それとも…どちらでもないのか?
「どうしてお前が謝るっ?!俺がお前を無理やり犯したのに。俺がお前を―――」
伸びてくる指先の白さと、触れてくるぬくもりの暖かさが、ただ苦しい。苦しくて、苦しくて、胸を掻き毟りたくなった。
「…それでも…僕は…マルス様のものだから…」
「…マリク……」
「…僕は…それでもマルス様が…好きだから……」
知っている。そんな事は分かっている。だって誰よりも俺が一番お前を見ていたのだから。お前の視線の先に在るものを。お前が追いかけていたものを。他の誰よりも俺自身が一番見てきたのだから。
「…どうして…僕は…こんな…君を傷つけても…どうして……」
見せる笑顔が違う事も。囁く声が違う事も。見つめる瞳の色彩が違う事も。全部、全部、知っている。それでも俺は。俺は…。
「俺を憎め。俺を恨め。そうしてくれ、マリク。そうしないと俺は」
「…出来ないよ、そんな事…そんな事出来ないよ……」
「してくれ、マリク。お願いだから俺を憎んでくれっ!」
身体を手に入れても、俺のものになんてならない事は知っている。それでも欲しいと思う気持ちが止められなかった。結局俺はどう足掻こうとも、闇に堕ちている。ガーネフと同じだ。同じなんだ。
「…出来ないよ…だって……」

「…だって…君の方が…ずっと…傷ついている……」

願った事は一つだったのに。望んだものは一つだった筈なのに。それなのに胸の奥底から湧き上がる醜い感情が、その全てを壊した。壊して穢して、何もかもを失わせた。それでも。それでも、微笑うんだな。微笑ってくれるんだな。お前は。お前は……。


妬みでも、恨みでもない、この感情は。この想いは。
「…お前が…好きだ……」
ずっと心に棘のように刺さっていたこの想いは。
「…好きだ…マリク…好きなんだ……」
このどうしようもない想いの答えは、ただひとつ。


「…好きだ…お前が…俺は…お前が好き…なんだ……」



落ちてくる言葉が、波紋となって僕の胸に広がってゆく。それは穏やかな水面に波を立てて、心という水を狂わせてゆく。
「…ありがとう…エルレーン……」
けれどもそれ以上に。それ以上に、僕にとってどうやっても消せない想いがある限り。消す事の出来ないただひとつの想いがある限り。
「…そして…ごめんね…ごめんね…エルレーン……」
僕にとって出来る事は、微笑う事だけ。友情を願ったあの時と同じ笑顔を見せるだけ。それしか出来なかった。それしか、出来ない。僕が君にあげられるものは、それだけだった。