―――触れた時の、安らぎが。そっと触れた時の、安らぎが。ただそれだけが俺を包み込む。
見上げてくる瞳がただひたすらに純粋で、真っ直ぐだった。そこには小さな曇りすら何処にもなくて、ただ。ただ透明な色彩を見せていた。
「ジョルジュさんは、僕の憧れで…そして誇りです」
子供のような穢れを知らないその瞳に映る自分が何故かひどく滑稽に思えた。そんな瞳に映れるほどのモノではないのだと、そんな自嘲気味な思考すら浮かぶほどに。けれども。
「僕は少しでもジョルジュさんに近付けるようになりたいです。貴方が僕にとっての目標です」
けれども何処かで思っていた。何時か。何時かその瞳に映る自分こそが真実になれればと。この穢れなき瞳に映る自分が『本当』の自分になれたらと。そして、願った。
――――この瞳を、曇らせる事がないようにと。それだけを、願った。
ずっと変わらずに追いかけてくるその姿を愛しいものだと思うようになったのは、何時からだっただろうか?例えその瞳に映る自分の姿が偽りであろうとも、それでも自分を慕ってくるこの存在が何よりも愛しいものへと変化したのは何時からだったのだろうか?
それは思い出せそうで思い出せない曖昧な記憶で。それでも確かに心の奥で芽生えた感情を否定する事は出来なかった。出来ないからこうして、今ここに居るのだから。
「泣くな、ゴードン。俺はそんな女々しい弟子を持った覚えはないぞ」
「…す、…すみません…でも…でも……」
顔をくしゃくしゃにして子供のように泣きじゃくる相手が、今はひどく羨ましい存在に思えた。こんな風に誰に憚ることなく剥き出しの感情を出す事が出来る事に。そしてその一方で何処か喜んでいる自分がいる。そんな風になってまでも相手にとって自分の存在が心に在る事に。自分の存在が刻まれている事に。
「…でも…嬉しくて…このまま貴方と敵対したまま…貴方と戦う事になったらって…そんな事を考えたら…僕は…僕は……」
ハーディン皇帝に捨て駒として城を護るように命じられた時、心の何処かで諦めていた自分がいた。この場所で死ぬのだと。公開処刑に逆らう事すらせずにただ死にゆくのだと、まるで他人事のように醒めた瞳でそれを受け入れている自分がいた。けれども。
『お願いします!ジョルジュさん!!』
ずっと変わらない瞳で。ずっと変わらないまま、俺を見上げる瞳が。真っ直ぐで曇りなく、ただ純粋に俺だけを見つめるその瞳が。醒めてゆくはずの自分の心を呼び戻す。その瞳が、その声が、俺をこの場所へと引き戻した。
死ぬ事は怖くはない。戦場で死ぬのは当たり前だ。争いがある以上、それは避けられない事だ。けれども。
「…貴方が…いなくなってしまったら…そんな事を考えたら……」
けれども今、怖いと思った。この存在が、もしも。もしも自分にあの瞳を向けてくれなくなったならば。真っ直ぐな瞳をしてくれなくなったならば。
「…僕は…僕は……」
「―――ゴードン……」
偽りだらけの人生でも、ただひとつ綺麗な真実があるとするならば、その瞳に映し出されている自分の姿だと。その瞳が映している、自分なのだとそう願ったから。
「…俺は…不甲斐ない師匠なのかもな。弟子にこんなに心配をさせてしまうなんて」
大陸一という偽りの称号を与えられ、アカネイアという崩壊した国に偽りの忠誠を誓い、本当のものなど何処にも見えなくなってしまった自分の…ただひとつの穢れなき場所。
「…ジョルジュ…さん……」
この場所までも失ってしまったら、俺はもう何処にも行けない。何処にも進めない。この見上げてくる瞳を、失ってしまったならば。
そっと、触れる。そっと、触れた。
「…ジョルジュ…さ……」
その髪に、その頬に、その唇に。
「…あ……」
触れた個所から広がるぬくもりが、全てになった。
―――――暖かいそのぬくもりだけが、全てになる……
零れ落ちる涙はとても暖かいもので。それをそっと指で拭えば、また。また、瞳から雫が零れてくる。それを何度も何度も拭ってやりながら視線を合わせたら、懸命に微笑おうとしているその顔があった。
「…ジョルジュさん…僕は…その……貴方の事が……」
指先に伝わるぬくもりが熱となる。その正体を確認する前に、その頬が真っ赤に染まってゆく。その熱さすら愛しいものに思えて、そのまま。そのままそっと、抱きしめた。
「――――俺が『好き』か?」
「…は、はいっ!……」
こんな場面ですら気真面目な返事をしてくる相手が可笑しかった。けれどもそれ以上に、愛しかった。―――愛しいと、想った。
「俺も好きだ、ゴードン」
もう一度見つめて、その瞳に映る自分の姿を確認する。俺が一番好きだと思える自分の表情を確認して、そして。そしてもう一度キスをした。そっと、ひとつ、キスをした。
憧れと好きとの間に境界線はなかった。少なくとも僕にはなかった。憧れて尊敬して、そして一番大好きな人。世界中に何処を捜しても、僕にとって貴方以上に意味のある人はいない。僕にとって貴方以上の人はいない。だから全部、同じ。全部一緒だから。
――――ずっと憧れていた人。ずっと好きだった人。ずっと尊敬していた人。ずっと振り向いてほしかった人。
貴方に追い付きたくて、貴方と同じ位置に立ちたくて、そして貴方の見ているものを見ていきたくて。一緒に見ていきたくて。望んだ事はただひとつ。ただひとつだけ、だった。
一緒に笑いたい。一緒に泣きたい。一緒に哀しみたい。一緒に喜びたい。同じものを見ていたい。同じ事を感じたい。同じ場所に立ちたい。同じ所へと歩んでゆきたい。それだけが、僕の願い。
「…これからは…その…ずっと一緒に…いてくれますか?…」
少しだけ戸惑いながら、それでも望みを告げる相手に俺はひとつ微笑った。心が優しく少し気弱な所がある弟子は、それでも一番欲しいものは絶対に諦めない。一番の願いは絶対に諦めなかった。だからこうして俺を呼び戻した、この場所へと。お前の強い意志だけが、俺を。だから告げよう。俺の想いを。俺の、気持ちを。
「――――ああ、ずっとお前とともにいる。永遠にお前は俺の弟子だからな」