one more kiss・4



―――その先に在るものを、知りたかった。その先に在る本当の事が…知りたかった。


きつく握り締められた指先をそっと解いた。けれども意識を失った瞼は開かれる事はなかったが。それでも構わずにロディはその指先をひとつひとつ解いた。そして。
「…愛しています…カイン……」
きつく握られていたせいで朱くなった指先にそっとキスをした。触れるだけのキスをした。壊れた瞳で、キスをした。誰に気付かれる事もなく、誰に見つけられる事のない小さなキスを、した。
「…あいして…います……」
どんなにこの言葉を告げても、届く事はないのだろう。その心に踏み込む事は出来ないのだろう、そんな事は分かっている。こうして自分は彼を蹂躙した男なのだから。無理やり犯して、消える事のない傷を作った男なのだから。けれども。
「―――それだけは本当の事なのですよ……」
けれども、決して消える事のない楔を彼の中に打ちつける事が出来た。それは暗い喜びだった。どんな理由であろうとも、どんな意味であろうとも、相手にとって自分は決して消す事の出来ない存在になった。決して消す事の出来ない存在。


――――そんなどうしようもない喜びが、自分の中を駆け巡った。


重たい瞼を開ければ、歪んだ風景がそこに在った。何が起きたのかを理解する前に起き上がろうとした身体が悲鳴を上げる。それは心の悲鳴と共鳴して、思わずカインはその場に蹲る。
「…俺…はっ……」
何をしていた?何をされた?何を…思った?神聖なるこの訓練所で湧きあがった劣情を抑えきれずに自ら身体を弄り、そしてそんな自分に対して彼は…。
「…何を…何を……」
嫌だと言葉で告げても浅ましい身体は反応を寄こした。口では拒絶しながらも身体は熱を求めた。違うと分かっていても、求めた。
「…俺は…アベ……」
違うのに、お前じゃないのに。その腕も指も唇も息づかいも全部。全部、違うのに。それなのに身体は反応を寄こした。女のように脚を開いて、ソレを受け入れた。喉をのけ反らせて声を上げて求めた。自ら腰を振って、その快感を求めた。
「…アベル…俺はっ……」
お前じゃないのに。お前の腕の中じゃないのに、それなのに。お前の声じゃないのに、それなのに。それなのに、その言葉を告げる。俺に、告げるから。
「…俺は…お前がっ……」
愛しているなんて、そんな簡単に。簡単に言わないでくれ。俺はもうどうしていいのか分からない。分からないんだ。だってお前はここにはいない。俺の隣にはいない。俺以外の相手の手を取り、俺以外の相手にその言葉を告げる。俺以外の相手を抱いて、俺以外の相手にキスをする。俺以外の…。
「…好き…だ…アベル…俺はまだ……」
キスをして欲しかった。もう一度キスをして欲しかった。激しくなくていい、熱くなくてもいい、ただ。ただ優しくひとつキスをして欲しかった。もう一度だけでいいから。
「…俺は…好きなんだ……」
抑えてきたものが閉じ込めてきたものが溢れだす。もうそれを止める術など分からなかった。ただ。ただ、溢れて流れるしか出来なかった。零れて広がるしかなかった。


本当は、知っていた。知っていたのに気付かないふりをした。
『…カイン…愛している…俺は…ずっと……』
その手がそっと髪を撫でる瞬間を。汗ばむこの髪を、そして。
『…誰に許されなくても…これだけは変えられない…』
そして、そっと降ってくる唇の感触を。もどかしい程に優しいキスを。
『…ごめんね、こんなにも…こんなにも君を愛していて……』
優しくて、苦しいキスを。甘くて、切ないキスを。ずっと俺は、知っていた。


――――もう一度キスをして。本当のキスを、して。ただひとつのキスを。



日常は何一つ変わらなかった。アリティアの為にマルス様の為に己を鍛える日々。そこには何一つ変わりない風景があって、日常があった。考える時間すら容易く奪ってくれる日々がそこにはあった。
「まだまだだ!さあ、かかってこいっ!!」
腹の底から声を上げて、目の前の相手と剣を交わし合う。限界まで身体を動かし、くたくたになるまで訓練を続ける。そうする事で、眠る以外の行為を封じた。考える事を、思う事を、閉じ込めた。そうしなければ、自分が綻んでしまうから。
「もう降参か?情けない、他に相手はいないのかっ!」
あの後身体はどうしようもない程に軋んでいたが、それでも何時ものようにこの場に立った。そうしなければ、何もかもが足許から壊れてしまうような気がしたから。だから何もかもを閉じ込めて、無理やり『日常』を作り出した。
あいつにも何時ものように接した。何時もと同じように声を掛け、何時もと同じように訓練をした。けれども。

――――あの腕が俺を抱いた。あの指が俺を犯した。あの汗の中で肌を重ねられ、あの息づかいの中で身体を貫かれた。

どんなに閉じ込めようとしても、どんなに消そうとしても、どうやっても溢れてきてしまう。記憶を閉じ込めても、身体が覚えている。その腕の感触を、その指遣いを、その匂いを。お前は違うその熱さを。
「もっとだ!もっとかかってこいっ!!」
違うのに。何もかもが違うのに。それなのに同じ事をするから。それなのに同じ言葉を告げるから。それなのに、同じキスをするから。
「もっとだっ!もっと来いっ!」
届かないから。もうお前は届かないから。お前が俺の隣にいないから。だから、俺は。俺は、もう。もうお前の事を、忘れたい。そうだ、忘れたい。忘れてしまいたい。


―――――もう何処にもいないお前を…忘れられたならば……


「最近のカイン様凄いな…前からあの方は考えるより身体を動かす方だけど…お陰でこっちの身が持たないよ」
「ハハハ、けれどもそれだけあの方が騎士として凄いという事だ。見習わないとな」
通りすがりの見習い兵の言葉を聴きながら、ロディは訓練場を後にした。あの日以来何が変わったわけではなかった。何も、変わらなかった。カインはあの事を『無かった』事にしたように自分に接した。けれどもロディには分かっていた。それが決して『無かった』事にはならないのだという事を。
あれから視線が真っ直ぐに合わなくなった。どんな時でも真っ直ぐに相手を見据えるカインが、自分にだけは少しだけ視線をそらすようになった。それは本当に些細な変化で決して自分以外には気付かないほどの…そう、自分以外には決して気付く事のない変化だった。
「―――こんな事ですら喜んでいる私は…どうしようもない男ですね……」
誰にも聞こえる事のない呟きは、自分でも何処か壊れていると思った。何処か壊れてひび割れていて、それでも止められないもの。止められない、想い。
それとも元々壊れていたのかもしれない。初めから自分は壊れていたのだから。最初から自分は狂っていたのだから。まともに誰かを愛する事なんて、きっと。きっと穢れた自分には出来ない事なのだから。だからこんな風に歪んだ愛情を向けるしか出来ない。一番幸せとは遠い場所で、綺麗なものとは無縁の場所で、どうしようもない歪んだ愛を抱える事しか出来ない。それが自分という人間の正体だった。この醜く歪んだ自分という入れ物の正体だった。―――それだけ、だった。

こんな自分でも誰かを幸せにする事は出来るのだろうか?こんなどうしようもない自分でも。

「―――眉間にしわが寄ってんぞ、ロディ」
不意に掛けられた声にはっとして顔を上げれば、驚くほど近くにその顔はあった。見慣れた筈のその顔が。
「…ルークか…何か用か?」
驚いた事を悟られたくなくてわざと不機嫌に告げれば、相手は気にする事なく屈託な笑顔を自分に向けてくる。何時もそうだった。自分とは全く正反対の境遇にある相手。生まれながらに何もかもを持っている相手。そのせいかひどく無邪気で純粋な所がある。それは素直に相手を羨ましい思う所だった。
「別に用なんかねーけど、そんな難しい顔していたら気になるだろう?相棒」
「誰が相棒だ」
「俺とお前に決まってんだろ?」
能天気とも思える相手に頭が痛くなりながらも、救われている所はあった。アリティア軍に入隊するには身分は問われない、実力さえあれば幾らでも出世は可能だ。それでもそれを妬む人間は少なからずいる。貴族という身分に胡坐をかく輩も。そんな中で『貴族』でありながらも、気にすることなくこうして声を掛けてくる。どんな相手にも気軽に、貴族でもない自分にも同じように。
「何時から私達はそんな事になったんだ」
「何時からって決まってんだろ。俺とお前が出逢った時からさ」
「何だそれは」
「何だって、言葉通りだぜ。な、相棒」
まるで太陽を思わせる笑顔で気軽に肩を組んでくる相手は、何故だか煩わしさは感じなかった。あの事件以来必要以上に他人とは関わらないようにしてきた自分に土足で踏み込んでくる相手。けれども何故か嫌ではなかった。
「全く、お前は意味が分からないな」
半ば呆れながら告げれば、相手は屈託のない笑顔を自分に向けてくる。本当に自分とは正反対だと思った。笑える程単純で、挫折を知らないで、誰からも愛されて、呆れるほど前向きで。けれども。
「意味なんてねーよ。俺がそう思ったんだから。お前は俺の相棒だってな」
けれども、時々。時々無性に羨ましいと思う事がある。こんな風に、何のわだかまりもなく笑える笑顔に。


――――笑えよ、もっと。もっと楽しそうに笑えよ。その為なら俺きっと何でも出来るから。だから、思いっきり笑えよ。俺、お前の笑った顔見たいんだ。



倒れ込むようにベッドの中に沈めば、直に思考は奪われ眠りは訪れる。それが今自分の『日常』だった。目を閉じれば足許から睡魔がじわりと這い上がり気だるい眠りへと自分を落とす筈だった。けれども。
「――――ベル……」
けれどもそれは訪れなかった。それどころか無意識に閉じ込めてきたはずの名前が口許から零れてくる。零れて、落ちてくる。
「…ア…ベル……」
腕の中に居れば何も考えずに眠れた。暖かさに包まれれば疲れた身体は心地よく眠れた。ぬくもりがそこにあるという事実だけで、眠る事が出来た。腕の中で何も考えずに。
「…俺は…どうすればいい……どうすれば……」
犯されたあの日から、心とは裏腹に身体が衝動的に熱を帯びる瞬間が増えた。どんなに否定しようとも確かにあの時、身体は満たされた。無茶苦茶に犯されたのに。
「…駄目だっ…こんなっ……」
貫かれた瞬間を思い出し下半身が熱くなってくるのが分かる。それを消すために首を左右に何度も振った。けれどもそうすればそうする程鮮やかにあの時の場面が浮かんでくる。
「…こんなっ…あっ……」
シーツに蹲り必死に耐える。けれどもそのシーツの感触にすら身体が反応した。尖った乳首が布に擦れ、それが止められない熱を生む。
「…ぁっ…ふっ…ふ…くっ……」
手が、伸びた。そのまま微妙に変化させた自身に触れ擦ってやれば、たちまちソレは勃ち上がった。こうなったらもう、止められなかった。
「…んんっ…んんんっ!…っ……」
シーツを口に咥えながら、夢中で自身を扱いた。それは直ぐに先走りの雫を滴らせ、どくどくと脈を打つ。
「…だめだ…こんなっ…こんな…くふっ……」
無意識に指が後ろへと滑ってゆく。双丘の間に滑り込ませ、ひくひくと蠢く蕾に自らの指を突き入れた。そのまま指を折り曲げ、ぐちゃぐちゃと掻き回す。わざと乱暴に掻き回す。あの時のように、犯された時のように。

『何を言っても無駄ですよ。こうして貴方は私に組み敷かれ、脚を広げて私を受け入れている。私に犯され、腰を振っている。その事実は消えないのだから』

ああ、そうだ。そうだ、俺は。俺はこうして女みたいに後ろを貫かれてイクんだ。女みたいに腰を振って、声を上げて。男の肉棒を咥え込んでよがるんだ。気持ちイイって、よがるんだ。
「―――んんんっ!!んんんんっ!!!」
白いシーツが唾液に塗れて染みを作る。それでも、止められなかった。片方の指で押し広げ、もう一方の指を突き入れて掻き乱した。その動きに合わせるように腰を振れば、布と肉棒が擦れる。もう、限界だった。
「んんんんんっ!!!!」
どくんっ!と弾ける音がする。それと同時にどくどくと生暖かい液体がシーツを汚した。

――――もう、戻れない。あの頃には戻れない。戻れないんだ。

どんなに好きでも。どんなに願っても。もう二度と。あの頃のように笑いあって、あの頃のように抱き合って、あの頃のように生きてゆく。そんな事はもう二度とないんだ。分かっていた、分かっていた事なのに。好きだと告げられなかった自分が一番分かっていた筈なのに。それなのに、どうして忘れられないの?


「…それとも…忘れさせてくれるのか?…お前が……」


目を閉じて浮かんでくる残像をすり替えた。愛しているという言葉の声をすり替えた。何度も何度もすり替えて、そして眠った。泥のような眠りに堕ちた。