one more kiss・5



―――愛していると告げるその声が、もう誰のものなのか分からない。誰の声なのか、もう分からない。


夜空を見上げれば薄い雲に隠れた月明かりがほんのりと地上を照らしていた。少しだけ冷たい空気がひとつ、身体を震わせた。その冷たさを振り切るように首を左右に振り、カインは訓練場に向かった。あの日以来決して夜中に踏み入れる事のなかった場所へと。変わりない日常に無理やり戻しても、戻しきれなかった唯一の場所へと。
「――――」
扉に手を掛ける。普段ならば何でもない筈なのに今はひどくこの扉が重たく感じた。まるで鉛のような重い扉のように。これはきっと最後の警告だ。今ならば引き返せると…今ならば、戻れると―――そう、最期の警告だった。

「…やっと来てくれたんですね…ずっと貴方を待っていましたよ……」

四角く区切られた空間から零れる淡い月の光が、その整った容貌を照らした。それはひどく優しく、けれども何処か壊れたような笑顔だった。
「…ロディ……」
その笑顔に導かれるように近付けば、戸惑う間もなくその腕の中に抱きしめられる。そこから微かに汗の匂いがして、ぞくりと身体の芯が疼くのを抑えられなかった。抑えられない。
「きっと貴方はここに来てくれると思っていました。私の元へと来てくれると」
耳元で囁かれる声はひどく優しい。優しすぎるほどに。この声に包まれ溺れてしまえたら、全てを忘れる事が出来るのか?全てを心から消す事が出来るのか?
「―――お前は俺を『愛している』と言った。あの言葉は本当か?」
顔を上げてその瞳を見つめる。真っ直ぐに自分を見据える瞳はけれども何処か壊れている。壊れて、そしてひび割れている。
「本当ですよ、私はずっと。ずっと貴方だけを思っていました」
その瞳を自分は知っている。そう、この瞳を知っている。何処か壊れてそしてひび割れたその瞳を、確かに自分は知っている。知って、いる……。
「…ずっと?…俺を、ずっと…?……」
それは闇に塗られ、光のない世界。正常という言葉は何処にもなくただ、ただ、歪んだ世界。貴族という名の欲望に塗れた豚どもが、自らの欲望の為だけに築きあげた牢獄。その中に居たのは―――
「…ロディ…お前は…まさか……」
すえた臭いのする地下室に閉じ込められた無数の少年達。貴族どもの欲望の玩具にされた少年達。皆犯され壊され歪まされ、そしてどうにもならない絶望を植え付けられた少年達。それは。それは……
「やっと気付いてくれたのですね。あの中に私はいたのですよ。あの憐れな貴族どもの玩具の中に。でも今はその事を不幸だとは思いません、何故なら貴方にこうして出逢えたのですから」
不意に見せた無邪気な笑顔が、何故か今はひどく苦しい。無邪気な笑顔の筈なのに、なのにそれはどこかいびつで歪んでいる。何処か、壊れている。
「あの日あの瞬間、私は貴方に恋をしました。貴方に恋をして『生きている』という事を実感しました。それから私の生きる意味は貴方になったのです。もう一度言います、カイン…私は貴方を、愛しています」
唇が塞がれる。それを拒む事は出来なかった。――――出来ない。この手を、この腕を、引き剥がす事は出来ない。出来ない。
「…ロディ…それは……」
触れるだけのキスだった。そっと触れるだけのキス。今までのように強引に息すらも奪うキスではなく、ただ。ただ、憐れな想いを伝える為だけの。けれども、それは。それは…。
「…それは…きっと…きっと愛じゃない…錯覚だ……」
「錯覚でも構いません。ええ、構わないのです。貴方がどう言おうとも、私はあの時の貴方の涙に恋をしたのです」
これは恋じゃない。愛でもない。けれども、この手を離す事は出来ない。壊れて歪んで傷ついたこの腕を。
「――――逃避行動であっても、代償行為であっても、それでもその対象は私にとって、貴方だけなのだから」
腕を、廻した。その背中に腕を。それがどういう意味を持つのか分かっていながら…分かっていたから腕を廻した。そうだ。同じだ。同じだ。自分だって壊れている。何処か壊れている。あの日、アベルと別れたあの日から、自分だって逃げていた。現実から逃げていた。戦う事で鍛える事で、ぼろぼろになる事で、現実から逃れていた。
「私のものになってください…貴方が誰を想っていてもいい。想い続けていてもいい…ずっとあの人を愛していてもいい…だから私のものに……」
降り積もる声が全ての思考をかき消した。何もかもを消し去った。そして残ったものは、同情なのか憐れみなのか、それとも淋しさなのか…名前の分からないただひとつの想いだった。ただひとつの、どうにもならない想いだった。
「…ロディ……」
手を、伸ばした。伸ばして、その頬に触れた。それは何処かひんやりと冷たいものだった。けれどもその冷たさが今の二人にはひどく似合っているような気がした。そう、この冷たさこそが相応しい気がした。
「…これはきっと…同情だ…けれども…俺は…他にどうすればいいのか思い付かない…だから……」
だからどうなるのだろう?そんな事をぼんやりと思ってみても答えは出なかった。だから自分から唇を重ねた。答えなんて出ないのならば、もう今出来る事は互いの隙間を埋める行為だけだった。そうする事でもっと。もっと空洞が広がるとしても、今はそれ以外の方法が浮かばなかった。他の答えを見つける事が出来なかった。だから唇を重ねた。その先に在るものが例え虚しさだけだとしても、止める事が出来なかった。


そこに在るものが淋しさだとしても、憐れみだとしても、それでも。それでも今はこうしていたかった。こうして誰かのぬくもりを感じていたかった。
「…あっ…あぁっ!……」
身体を駆け巡る指先は驚くほどに優しくて。その優しさが今は苦しい。ただ貪るように抱かれれば、本能のままに犯されれば何も。何も考えなくていいのに。
「…あぁんっ…あぁ……」
壊れものを扱うように大切に、愛しむように優しく抱くから。だから思考の全てを拡散出来なくて。意識を飲み込まれる事が出来なくて。
「―――愛しています…カイン…貴方だけを……」
降り注がれる声が、降り積もる言葉が、髪に睫毛に爪先に落ちてくる。言葉の雨が全身に注がれる。けれども熱く囁かれる言葉は何処か深い傷があって、その雨に溺れる事が出来ない。その痛みが自らの心の傷を抉り取って、ぽろぽろと剥がしてゆく。
「…ロディ…もっと…もっと…無茶苦茶に…俺をっ……」
溺れたいのに、何もかもを忘れて、何もかもを捨てて、この腕に溺れたいのに。それなのに優しい腕は思い出したくないものを思い出させる。降り積もる声は、互いの痛みを向き合わせる。見たくないものを、思い出したくないものを、忘れたいものを。
「…もっと…俺を…壊し……!あああっ!!」
そうだ、もっと。もっと激しく貫いてくれ。何も考えられなくなるほどに、何も考えなくていいように、この刺激に溺れさせてほしい。何も、何も、考えられなくなるように。
「―――あああっ!!もっとっ!もっと深くっ…ああああっ!!!」
優しく抱かないでくれ。そうしたらあいつの腕を思い出してしまうから。あいつの声を思い出してしまうから。だから、激しく。だから、無茶苦茶に。壊れるほどに、犯してくれ。あいつのかけらが俺の中から消えるように、お前で溢れさせてくれ。お前の熱で溺れさせてくれ。そうすれば俺は。俺は……

「分かりました、貴方の望み通りに…愛しています…カイン……」

それでもお前は言うんだな。あいつと同じ声で言うんだな。あいつと同じ声で俺の名前を呼んで、そして告げるんだな――――愛している…と。


お前を愛する事が出来れば、お前は救われる?抉り取られた傷を埋める事が出来る?そして俺も。俺も、この空洞を埋める事が出来るのか?こうして向き合って傷を互いに広げて、そうして。そうして、別のもので埋められれば。

――――違う…もっと。もっと淋しくなるだけだ……

だってお前はあいつじゃない。別の人間だ。どんなに同じように同じ言葉を告げられても、お前はあいつじゃない。違う人間なんだ。それなのに自分の都合だけでお前という存在を別のものにすり替えて、お前の腕の中で別の相手を想って。そんな事は決して正しい事ではない。けれども。それでも。


絡み合う指先。繋がった身体。奪い合う吐息と重ね合う肌。その生み出す熱は心地よく、正しい答えすら歪ませてゆく。間違っていると分かっていても、救われないと分かっていても、止められなくて。
「あああっ!!!」
注がれる液体の熱さに溺れた。その熱に意識を飲まれそうになる前に再び楔を捻じ込まれる。それは今果てたばかりなのに充分の硬度と巨きさを持って俺の中を駆け巡る。
「あああっ…ロディっ!もぉっ…っああああっ!!」
貫かれる、何度も何度も。壊れるまで、擦り切れるまで。溢れて飲みきれなくなるまで、注がれる。身体中の全てを支配され、お前の匂いを刷り込まれる。もう何処にも隙間がない程に、お前に支配される。お前に埋められる。お前に呑み込まれる……

「……もぉ…許し……ベ……ル………」

思考が何処にもなくなって世界が真っ白になって、そして痛みなのか快楽なのか分からなくなって、俺は意識を手放した。



意識のないその唇にひとつ口づけてロディは微笑った。ひとつ、微笑った。泣き顔で微笑んだ。
「貴方を手に入れたのに…何でこんなに…こんなに私は……」
ぽたり、と。ぽたりと、意識のない頬に雫が零れ落ちる。ぽたり、ぽたり、と。透明な雫が。
「…私は…虚しいのですか?…どうしてこんなに…私は……」


「……淋しいの…ですか?……」


声を上げて泣きたかった。大声で泣きたかった。あの地獄のような日々ですら泣けなかったのに、今は。今は声を上げて泣きたい。子供のように泣きじゃくりたい。どうにもならない事に、どうにも出来ない事に。
「…何で…こんなに…私は……」
その理由も意味も何もかも分かっている。頭では理解していても、感情が追い付かない。そんな事もひっくるめて分かっていた事なのに、それなのに止められない。止める事が出来ない。

――――だって貴方が名前を呼ぶのは…貴方が最期に名前を呼ぶのは……

身代わりでも代償でも逃避でも、それでも良かった。それで良かった。それは自分も同じだったから。貴方に恋をする事で壊れた心を閉じ込めて塗り替えたのだから。いびつに歪んだまま、閉じ込めて別のものを積み上げたのだから。なのに、どうして。どうしてこんなにも。
「…いえ…分かっています…そんな事初めから…分かって……」
ただ純粋に好きなだけならば良かった。ただ好きなだけならば、きっと救われた。本当にそれだけならば、こんなにも淋しくなかった。


――――この想いは愛だけど、愛じゃない。恋だけど、恋じゃなかった。