底のない海




絡み合う視線の先に全ての答えがあって。それを確かめようとして手を伸ばせば、そっと睫毛が閉じられたから。


――――全てを奪う口づけを夢見て、叶わない願いに目が醒める。そんな日々の繰り返しだった。


ふたりで幸せになるという願いを捨てれば、世界は無限に広がった。閉じられていた無数の扉は開かれ、その代償にただひとつの秘密を失うだけだ。
「僕はずっと貴方の幸せだけを願っています、マルス様」
どんな風に微笑っているのかなんて、もう分からなかったけれど。けれどもきっと。きっとひどく滑稽で何処か歪んでいるのだろう。それでも微笑う。それでも、微笑む。
「だから僕は行きます。カダインで魔道を学んで…そして誰よりも貴方の奴に立つ人間になって帰ってきます。だから」
「―――だからこの手を、離して…かい?マリク」
この人の中に秘められた可能性は、一体何処まで広がってゆくのだろう?それを誰よりも一番近い場所で見てゆきたかったけれど、それはきっと許されない事。どうやっても僕は貴方の『一番』にはなれない。なる事が許されないから。
「…僕から貴方の手を離す事が出来ません。だからマルス様から…離してください……」
「嫌だと言ったら?」
「それでも、離してください。僕は必ず帰ってきますから。貴方の元へと」
繋がった手に力がこもる。その強さに胸を震わせて堪え切れないものが込み上げて、そして。そして耐え切れずに睫毛を閉じれば、そのまま。そのまま奪うようにキスをされた。


――――心が通い合うだけで満たされれば、こんなにも。こんなにも苦しくはなかった。こんなにもただ貴方を欲しいと願わなければ。


何にでもなれる。どんなものにでもなれる。選択肢は無限にあって、どれを選ぼうとも自由だ。けれどもひとつだけ。ひとつだけ、選べないものがある。
「…駄目です…マルスさ…まっ…んっ…んんっ……」
言葉を紡ぐ隙に、舌を絡め取られる。そのまま根元まで吸い上げられ、深く口内を貪られる。それはまるで眩暈すら覚える激しい口づけで。
「…マル…ス…さ…ま…んんっ…ふぅっ…んっ!」
「このまま手を離しても、それでも」
告げられる言葉に睫毛を開けば、どうしようもないほど惹かれてやまない瞳がそこにあった。穏やかなのに強い光を秘めた瞳。何よりも強い想いを秘めたその瞳が。
「それでも心は離さないから。絶対に離さないから、マリク」
抱きしめられる。強い力で、骨が砕けるほどに。砕けてもいいと願う程に。砕かれてしまいたいと祈るほどに。

どうして。ああ、どうして。僕はこんなにも。こんなにも貴方が、好き?

ふたりでしあわせになるという罪よりも、貴方が光に包まれる未来を願った。貴方が一番綺麗な場所に立って、幸福に包まれるようにと祈った。それなのに、この罪深い欲望はどうやっても消えない。どうやっても、消せない。
「貴方を好きな事だけが、僕にとってどうしても赦されない事なのに」
未来なんて幾らでもあって、可能性も希望も無限にあるのに。それなのにどうして。どうして、僕の心は貴方を求めてしまうのか。貴方だけを求めてしまうのか。
「それなのにどうして。どうしてこんなにも…マルス様……」
「赦されない事なんて何もない。僕はマリクが好きだ。マリクも僕を好きでいてくれる。それ以上に何があるというの?」
「…何もないです…何もないのですよ、マルス様…その先にはだから……」
僕にとっての夢は、貴方の役に立つという事。貴方の為に生きるという事。それ以上のものは何もない。けれどもそんな僕自身の夢を誰よりも自分が裏切っている。この想いが、この欲望が、裏切っている。
「何もなくていい。僕はマリク…君がそばにいてくれればそれだけでいい。それだけでいいんだ」
繋がった手を離せない。掴まれた腕を解けない。奪われる唇を願って、重なる吐息を夢見て、そして。そして底のない海に溺れてゆく。溺れる夢を、見る。


――――底のない海に、ふたりで溺れて。そして水の泡となって消えてしまえたならば。


答える事は出来ない。肯定する事は出来ない。それでも拒めない。拒む事なんて、出来ない。
「…僕は…卑怯です…貴方の役に立ちたいと願いながら…貴方の腕を解けない…どうやっても僕から…解く事が出来ない……」
何もかもを捨てて、全てを捨てて、そして。そして赦されない罪に溺れたいと夢想する自分がここにいて。そんなどうしようもない甘い誘惑に流されてゆきたいと願う自分がいて。けれども。けれども、それだけは。それだけは、駄目だから。
「解かないよ、マリク。駄目だ、許さない。君が僕から離れるのは絶対に許さない」
きつく抱きしめられて、広がる微かな匂いに溺れる。ふたりしか知らない秘密の薫りに溺れて、そして。そして、もう…もがく事すら忘れた。


触れる、睫毛。重なる、唇。零れる、吐息。その全てが貴方のもの。
「ずっと一緒にいたんだ。幼い頃から、ずっと」
絡まる、指先。触れ合う、額。重なり合う、身体。その全てが貴方のもの。
「だからこれからもずっと一緒だ、マリク」
どうやっても、どうなっても、僕は貴方のもの。貴方だけのもの。
「離れても、一緒だ。君の心を絶対に僕は離さない」
どんな選択肢を選んでも、どんな未来を選んでも僕は貴方だけのもの。


――――絡み合った視線に全ての答えがあって。どんなに否定しようとも、どんなに視線を外そうとも、消す事の出来ない想いがあって。


微笑う、貴方。何よりも強く綺麗な光の下に生きている貴方。そんな貴方の僕は影でいい。足許に広がる小さな影でいい。だからずっと。ずっと貴方を見てゆく事を赦してください。
「ずっと、一緒だ―――マリク」
強く告げられる言葉にうっとりと目を閉じる僕は何処まで堕ちてゆくのだろう?底のない海に。深い海の底に。何処までも、何処までも。
「…マルス様…はい……」
許されない望みを告げ、自らの願いを砕いて。それでも。それでも、こうして貴方の手を取る自分は。貴方の指に絡め、睫毛を閉じる自分は。許されないと分かっていても。赦されないと分かっているのに。
「…ずっと…僕は貴方だけの……」
もがく事から忘れ、沈んでゆく僕を。泡になりたいと願い、けれどもそれ以上に貴方と共にありたいと望む僕を。


――――貴方は見ている。ずっと、綺麗な場所で。ずっと、綺麗な瞳で。