――――堕ちてゆく、深い闇へと。加速ながら、堕ちてゆく。
もう何処にも戻れなくてもいい。貴方がここにいてくれるのならば。何処にも辿りつけなくてもいい。貴方がそばにいてくれるのならば。この触れあった指先のぬくもりが全てになったから、もう。もう、何も考えられない。何も浮かんでは来なかった。
地上に降り注ぐ雨が世界の全てになって、何もかもを隠してくれたらいいのに。何もかもを、この霞んだ景色の中に。
「どうして、僕らはこうして向き合ってしまうんでしょうね」
雨音すらもう遠いものへとなってゆく。こんなにもそばに在る筈なのに。二人の全てを濡らしているのに。それなのにこんなにも、遠い。
「―――マリク…ごめんね。きっとそれは全部僕のせいなんだ」
柔らかく微笑うその笑顔が、今はひどく哀しく思えた。何時もはまるで太陽のように眩しくて、そして真っすぐな笑顔なのに。なのにこうして僕と向き合うと、その眩しさが翳ってしまう。それは二人の『罪』のせい。
「僕がどうしても、この手を…手離せないから」
繋がった指先のぬくもりは暖かい。冷たい世界の中でそれだけが、暖かい。ただひとつのぬくもりだけが今ここに在って。それだけが、ここに。
「…それは僕も同じです…マルス様…僕もこの手を…離せない……」
ただ好きなだけでいられればそれで良かった。好きという気持ちだけで埋められたならば。そうすれば、ただ。ただ優しい気持ちだけで満たされたのに。それなのに願ってしまった。好きよりもその先の想いを。加速して止められない程の想いで、求めてしまった。強く、強く。
「僕の方がきっと…貴方の手を離せない……」
重なり合った手のひらを自らの頬に当てて、そのぬくもりを感じた。目を閉じて、感じた。伝わるぬくもりだけが世界の全てになって、何もかもが見えなくなって、このまま。このまま世界を閉じてしまえたらと願った。このぬくもりだけで、世界の終わりが来たならばと。それはただの夢でしかないと、分かっていても。
幼い頃からずっと。ずっと、願っていた。
『僕はマルス様の、お役に立ちたいです』
ただそれだけを、願っていた。その為に頑張ってきた。
『お役にたてる人間になりたいです』
なのにどうして。どうして、それだけではいられなくなったの?
――――何時から、ふたりの歯車は狂い始めてしまったの?
好きという想いの先なんて、知りたくはなかった。知らなければこんなにも。こんなにも苦しくなかったのに。
「マリク、好きだよ。本当に僕はずっと」
瞼を開いた世界にいるのは貴方だけで。哀しく微笑う貴方だけで。どうしてだろう、僕はずっと。ずっと貴方の眩しい笑顔だけを見ていきたいと思っていた筈なのに、それなのにこんな表情を僕がさせてしまうのは。他でもない僕自身が。
「…ずっとマリクだけが、好きなんだ…それがどんなに駄目な事だって分かっていても…」
その言葉ひとつひとつに僕の心が絡め取られてゆく。何度も断ち切ろうと思って出来なかったのは、この。この僕の身体に無数に絡み付く透明な糸のせい。貴方が僕の身体と心に食い込ませたこの『想い』と言う名の糸のせい。
「君だけなんだ、マリク。僕にとっての『弱さ』を曝け出せる場所は」
絡まった指が解かれ、そのまま。そのままきつく抱きしめられた。濡れた冷たい身体すら焼き尽くすような激しい抱擁に、僕は目眩すら覚える。本当にこのまま。このまま抱きしめられる強さで、ばらばらになりたいと願うほどに。
「―――マルス様……」
こうして背中に腕を廻し抱擁を受け入れれば、また罪が降り積もってゆく事は分かっている。それでも。それでも背中に腕を廻すことは止められない。思考よりも先に、身体が動いてしまう。気持ちよりも先に、こころが進んでしまう。それはどうやっても、止められなくて。
「君だけだから」
絡み合う視線の先に在るものは、きっと同じもので。同じだけのものを重ねあって、積み上げてきた。それが少しでもずれていたら、きっと。きっとこんなことにはならなかったのに。少しでもふたりが違うものを、見ていられたならば。
「僕もマルス様だけです。ずっと幼い頃から…ずっと……」
好きという想いの先の、愛に気付いた瞬間。欲望に気付いた瞬間。独占欲に芽生えた瞬間。ふたりは何処にも行けなくなった。何処にも戻れなくなった。どうにもならなくて、もがく事すら出来なくて。否定しようとしても、拒もうとしても、それ以上に。それ以上に互いを求めてやまない心があって。どうしようもない欲望があって。それがもうどうにも出来ない所にまで辿り着いてしまったから。
「…貴方が好きです…マルス様……」
唇を、重ねた。熱い吐息を奪い合った。世界はこんなにも冷たいのに、こんなにもお互いは熱い。まるで全てが溶かされてしまうほどの、激しい熱。溶け合ってどろどろになる程の激しい想い。どうして、こんなにも。こんなにも、互いに執着せずにはいられないの?
ずっとそばにいたいと、それだけを願った。
「…マルス様…マル…んっ……」
ただそれだけを、願った。このひとのそばにいたいと。
「…はぁっ…んっ…んんっ……」
重ね合う唇の熱さと、零れる吐息の甘さと。溢れる心の切なさと。
「…僕は…マル…ス…様…はっ…ふぅ……」
その全てが伝わればいい。そうすれば、きっと少しだけ。
――――少しだけ、僕のどうしようもない欲望が満たされるから……
愛だけが全てを満たしても、想いだけで全てが満たされても、幸せになんてなれなかった。しあわせには、なれない。それでも。
「…ごめんね、マリク…僕の罪を君にまで背負わせて……」
それでも離れられなかった。それでも離れられない。他の誰かと幸せになるよりも、共に在る不幸を選んでしまうほどに、僕らは互いに執着をしている。
「―――ごめんね、マリク」
僕は貴方にそんな顔をさせたくはなかった。僕は貴方には真っすぐ前だけを見て、そして太陽のように眩しい笑顔を見せて欲しかった。けれどもそれ以上に。
「…いいえ貴方の罪は僕の罪でもあるのですから…それに僕は……」
「…僕は…その罪すらも…貴方と僕だけのものならば…喜んで受け入れます……」
それ以上に、願った。貴方の存在を。貴方の想いを、貴方の心を、貴方だけを。どんなになっても、貴方のそばにいたいのだと。
―――堕ちてゆく。加速して、深い闇へと。どうにもならない場所へと堕ちてゆく。けれどもそれすらも。それすらも互いが望んだものだった。どうにもならない想いで、願ったものだった。