指先を伸ばして、そして絡め合う。きつく、絡め合う。もう二度とこの指先を離さないようにと。もう二度とこの指先が離れないようにと。永遠に、離れないようにと。
――――なにもいらないの。あなただけで、いいの。あなただけが、いいの。
何度願っただろう?夢ならば醒めないでと。もう二度と目醒めないでと。もう歪んだ視界で見上げる貴方の姿がおぼろげにならないでと。幻にならないでと。
「…きっと私は夢を見ているのでしょう…でも…それでも良いのです」
伸ばした指先に触れるぬくもりがある。命の鼓動が聴こえてくる。それは何度も何度も夢に見た儚い幻ではなくて、確かにここに在るものだった。
「…それでも、いい…っ貴方がここにいるのならばっ!」
思考も罪も欲望も願いも絶望も希望も全てが消えた。全てが消え去った。ただ残ったものはひとつだけ。ここにあるただひとつの想いだけ。貴方を愛しているというただひとつの想いだけ。
「―――ニーナ……」
私を呼ぶ貴方の声は、心の中に在る記憶とは同じようで違っていた。あの頃の切なさよりも、もっと。もっと苦しくて、もっと堪え切れないもので。
「…カミュ…カミュ…カミュ…っ!!」
どうしていいのか分からないから名前を呼んだ。貴方の名前を呼んだ。それ以外の言葉なんてもう私は分からない。貴方以外もう私には…分からない。
どうして私は女なのだろう?嫌になるほどにちっぽけでつまらない女なのだろう?与えられたものは私にはたくさんあったのに。護るべきものも、貫かねばならない事も。
そして溢れるほどに与えられた強い愛がそこにはあったのに。それなのに、その全てを自らの手で壊してしまった。全てを、壊してしまった。
――――貴方を愛して。貴方だけを愛して。それだけがどうしても。どうしても、捨てられない想いで。
国を護らなければならなかった。民を護らなければならなかった。私を愛してくれた人を愛さなければならなかった。それは私にしか出来ない事で。アカネイアの王女である以上しなければならない事で。なのに私は何も出来なかった。何一つ、出来なかった。
「…愛している…愛しているの…貴方だけを…ずっと…ずっとずっと……っ」
王女にすらなれなくて、全てを捨てて逃げ出だして。何もかもなくなって、何もかも捨て去って、ただ独りの女になって。それでも浅ましい程に私は想ってしまった。貴方の事だけを願って愛して、求めてしまった。貴方への想いが全ての原因なのに、それなのに捨てられなかった。捨てられない。私は本当にどうしようもない程に『ただの女』だった。
「…夢でもいい…夢でもいい…貴方がいれば…貴方に触れられたら…私は……」
最期に残ったものはこれだけだった。ううん、一番消したくて消せないものがこれだった。どうやっても消えない貴方の存在が、全ての歯車を狂わせたのに。それなのに私は…こんなにも貴方を愛している。気が狂う程に、貴方だけを。
「――――触れてくれ…ニーナ…これは夢だ…だから私に触れてくれ」
綺麗な金色の髪も苦しい程に優しいまなざしもその全てが私の記憶のままで、けれども何処か少しだけ違っているのは、きっと。きっと、あの頃の好きという想いだけではいられないふたりだから。ただ純粋に好きだと心に秘めていたふたりではないから。
「…カミュ…愛しています…ずっと…ずっと貴方だけを……」
触れる、唇。ずっと夢を見ていた瞬間。ずっと夢を見続けていた時。それが叶った瞬間、私は気が付いた。ここに永遠はないのだという事を。
――――それでも、いい。それでもいいの。貴方の腕の中にいられるのならば、それだけでいいの。
なにもいらなかった。貴方以外、なにひとつ。
「…カミュ…んっ…んんっ……」
願ったものはただ一つ。貴方だけ。貴方だけで。
「…ニーナ……」
それがどんなに罪深き事でも私には止められなかった。
地獄に落ちてもいい。何もかも許されなくていい。世界の全てが私を罪だと言ってもいい。だからお願いこのひとを私にください。私に、ください。
繰り返す口づけ。触れ合う肌。重なり合うぬくもり。零れる汗と甘い吐息と、その全てが罪。全部、罪。けれども私は幸せで。壊れるほど、溢れるほど、幸せで。世界一罪深い女の私は、この瞬間世界一幸福な女になった。
「―――ニーナ…愛している…私も…愛している……」
瞳が重なって、微笑む瞬間。一瞬だけあの時に戻る。苦しかったけれども幸福だった時間。多分私が一番ただの『少女』でいられた時間に。ただ純粋に貴方だけを好きでいられた瞬間に。
―――――そしてそっと。そっと私の胸に一筋の剣が貫かれた。
一面に散らばる血飛沫が、まるで薔薇のようだった。紅く咲き乱れた薔薇のようだった。むせかえる程の血の匂いも、何故かひどく甘い匂いに感じる。
「…カ…ミュ……」
途切れ途切れに私を呼ぶ声はひどく幸福で、ひどく満たされていて。今まで見てきたどんな貴女よりも綺麗だった。哀しい程に、綺麗だった。
「…愛している…ニーナ……」
冷たくなってゆく身体に触れながら、もう動く事のない唇に口づける。体温を分け合う事のない口づけは、それでも。それでもひどく暖かかった。
「…愛して…いる…ニーナ…永遠に……」
貴女が犯した罪は私の中にもあって、そしてその罪が決して許されないものである事もふたりは痛い程に分かっていた。そして。そして。
―――――今この大陸に貴女が生きていける場所は、何処にも存在しない。
それは分かっていた事。貴女がマルス王子に全てを託した時から、歴史の歯車は貴女の『生』を許さなかった。大陸に英雄は一人でいい。王は一人でいい。そうでなければまた、この地上に争いが起こってしまう。貴女が望まずとも、マルス王子が望まぬとも。そして貴女が生きている事すら許さない輩が存在する以上。
「…永遠に愛している…私のただ独りの…恋人……」
生きろと言った私がこの手でその命を奪う。あれほど生きて欲しいと願った私が。けれども、私は。
「…他の誰かに…貴女を殺めさせはしない…他の誰にも…貴女を……」
初めから結ばれる事は許されない二人だった。初めから恋をした事が間違いだった。それでも愛してしまった。それでも、愛した。
見つめあった視線の先に在ったものが同じだと気付いた瞬間、もうふたりはどこにも戻れない場所に来ていた。
どうして私達は、出逢ってしまった?どうして私達は、愛し合ってしまった?何も持たない平凡な男女としてどうして出逢えなかった?ふたりの心に相応しい、何も持っていない平凡な人間で。
「…ニーナ…愛している……」
それでも貴女が王女として生きてゆくならば、他の誰かを愛してくれれば…ハーディンを愛してくれれば、こんなにも苦しくなかった。
「…愛している…愛している…ずっと……」
貴女が他の誰かと幸せになってくれれば、私はその面影を胸に抱いて生きてゆけた。
――――けれども貴女は淋しくて。ずっとずっと、淋しくて。
答えなんて何処にもなくて。幸福な場所も何処にもなくて。出逢った瞬間から未来なんて何処にもなくて。それでも愛して、それでも求めて。どうやっても止められなかった。どうやっても消せなかった。どうやっても…捨てられなかった。溢れて零れて広がって、誰も幸せになれなくても、愛する事を止められなかった。
「…ずっと…愛している……」
血まみれの屍を抱きしめる私はただの狂人でしかない。けれどもしあわせだった。やさしい夢の中で私達は、しあわせだった。