――――硝子の靴をください。瞼を開いても夢が醒めないように。睫毛の先にある優しい夢が、ずっと続いてゆけるように。


子供のようにはしゃいだ自分がひどく恥かしくなって俯いたら―――どうした？と視線を同じ位置にして尋ねてくれた。それだけで、嬉しいと思った。何よりも、嬉しいと。
「なあ、サムソン」
「む、どうした？シーマ」
見上げた先にある変わりのない横顔に無意識に口許が綻ぶのを止められない。けれども不器用な自分はこんな時に、その気持ちをどうやって表現すればいいのか分からなくて。
「あ、あの…その…ありがとう…買い物に付き合ってくれて」
「そんな事は礼には及ばんよ、シーマ。約束したではないか、パレスに戻ったら城下町を案内すると」
「―――ああ、そうだな…サムソン…約束してくれた…その…あの時は…う、嬉しかった…」
「お前との約束だからな」
不意に歩みが止まり、頭一つ分大きなその身体が自分の目の前に立つ。反射的に見上げたら…ひどく優しい瞳にかちあって。
「お前との約束は…一番俺にとって大事なものだ」
その瞳に釣られるように自然と、幸福な笑みが口許に浮かんだ。それは『グラの王女』になってから、ずっと忘れていた笑みの形だった。


黄金の靴を履いて王として人の上に立つことよりも、裸足のままでも平凡な娘として生きたいと願った。何も持たない灰だらけの娘のままで良かった。私という器に相応しい平凡手で穏やかな日常それがあれば、良かった。それだけで私の人生は幸福だと思えるものだから。けれども。けれども、靴を与えられて良かったと思える事がある。その想いがあるから例え相応しくない靴であろうとも私には必要なものだったと思えるから。
「…サムソン…その……」
その答えが今ここにある。自分の目の前に在る。自分には分不相応な靴だったけれど、それでも確かに得たものがある。それは自分の為にグラの為に戦ってくれた人々と結ばれた絆と、グラという国の誇りと、そして。そして、目の前の貴方という存在。
「…私はもう王女ではない…ただの平凡な娘だ。傭兵のお前が仕える意味のない存在だ。それでも…それでも…そばにいてくれるか？」
他の何物にも変えられない、大切な存在。大切なひと。貴方がいるから、私は乗り越える事が出来た。間違った選択肢を選ばずにいられた。そして何よりもこうして今、この地上に存在する事が出来る。ふたり、こうして『生きて』いる。
「シーマよ、その質問は…愚問だ」
「す、すまぬ…」
「違う、そういう意味ではない。俺は『傭兵』としてお前に仕えた訳ではない。そして今お前のそばにいるのは、俺自身の意思だ」
「…サムソン……」
「俺がお前のそばにいたいと思ったから、いる。それ以外の答えを俺は持っていない。それだけだ」
そっと伸びてくる大きな手のひらに戸惑いながらも指を絡めた。そこから伝わるぬくもりがひどく優しくて、ひどく暖かくて、どうしてだろうか？どうしてだろう？幸せな筈なのに、ただ泣きたくなったのは。


――――しあわせすぎて、怖いと思った。けれどもそれ以上によろこびが溢れて、零れて私の廻りをそっと包み込む。


繋いだ手を離したくないと願ったら、きつく握り返してくれた。言葉にした訳でもないのに、ぎゅっと握りしめてくれた。
「今日はお前の無邪気な顔が見られて…嬉しかったぞ。シーマ」
それが嬉しくてしばらく繋いだ手を見つめていたら、それ以上に嬉しい言葉が頭上から降ってきた。その声に胸の鼓動が止まらない。どきどきが、止まらない。それでも貴方の顔が見たいと思って胸の鼓動を堪えながら見上げたら、ふたり同じ表情をしていた。
「…サムソン…私も…その…嬉しかった…お前…いや…貴方が……」
耳まで真っ赤になって、それでも不器用に微笑むふたりがそこにいた。同じように熱くなった指先を繋ぎ合せ、互いに伝わってしまう程の大きさの胸の鼓動を鳴らしながら。
「…貴方が…一緒にいてくれたから……」
いいのだと、思った。貴方の前では無理をしなくてもいいのだと。女王らしく毅然とした態度を取らなくても、隙を見せないように気を張り詰める事もしなくても。剥き出しの何もない、ただの娘でいていいのだと。―――ただの何も持たない平凡な娘で。


黄金の靴なんていらない。豪華な王冠もいらない。
「…その、これからも……」
毎日生きるための食事と、繰り返される平凡な日常が。
「…私とともに…私と一緒に……」
そんな当たり前の日々があればいい。そして。
「…いてください……」
その日常に貴方がいてくれれば。貴方がそばにいてくれれば。


―――――私はもう何もいらない。何もなくて、いい。



「――――ああ、その為に俺はここにいる。お前の隣に」



視線が絡み合う。互いの瞳が重なり合う。そこに映っている互いの姿は何処か気恥しく、何処か嬉しそうで、そして何よりも。何よりも幸福な笑みを浮かべていて。
「…こういうのは…恥ずかしいな…サムソン…」
「…う、うむ……」
不器用で、ぎこちなくて、戸惑う事が多い恋。けれども何よりも幸せな気持ち。当たり前の事が、当たり前の日常が何よりもしあわせだと思える想い。それはきっと何ものにも代えられないものだから。
「…恥ずかしいが…その…嬉しいぞ…シーマ…」
額が重なり合って、睫毛が近づいて、そのまま。そのままひとつキスをした。触れるだけのキスだったけれど、何よりも暖かくて優しいものだった。何よりも想いが伝わり、何よりも喜びが溢れるものだった。


――――硝子の靴をください。貴方のもとへとゆける透明な靴を。私の全てを剥き出しにする、ただひとつの靴を。


「戻るぞ、シーマ」
「…はい……」


繋がった指先はずっと、離れなかった。ずっとずっと、離さなかった。

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