一面の白い雪の中で、君が微笑う。
ひどく淋しそうに君が、微笑う。
僕はその時本当に君を好きだと、思った。
―――君を好きなんだと、思った。
頭上から零れてゆく雪。その白さに全てを埋もれてしまえたら。
何もかもを捨てて、この白い雪の中に閉じ込められてしまえたら。
出来ないことは分かっている。
これを夢で終わらせなければならない事も分かってる。
それでも、君の涙と君の微笑みと。
そして今この場所で感じているこの想いを。
…この想いを夢で終わらせるのには…あまりにも、哀しく綺麗だったから……
背負う深い罪が、僕だけだったら良かった。
この繋がった指先から来る痛みが、僕だけならばよかった。
そうしたらこんなにも。こんなにも、きっと。
君を苦しめはしなかっただろう。
それでも君はこの道を選ぶ。
この想いを、選ぶ。そして、僕に。
僕に与えるのは、ただひたすらに綺麗な道。運命に選ばれた綺麗な道。
確かに僕は卑怯で、そしてずるい男かもしれない。
それでも確かに本当だったんだ。本物、だったんだ。
君を抱いたその時僕は、君を。君を本当に好きだと思ったんだ。
目覚めた瞬間に視界を覆ったのは一面の白、だった。ただひたすらに真っ白な視界。そして次の瞬間感じたのは、身体の芯から凍えるような冷たさ。その時になってやっと気が付いた。この一面の白の正体が雪だという事に。
「―――っ……」
起き上がろうとした瞬間に全身に激痛が走る。その痛みと同時に起きた眩暈に、耐えきれずにその場に蹲った。頭がくらくらする。喉から何かが込み上げて来て、吐きそうになった。それを寸での所で耐えると、ふわりと何かが僕の頭上に落ちて来た。
「……は…ね?……」
雪だと、思った。降り続ける雪の塊が僕の頭上に落ちて来たのかと思った。けれども。けれども違っていた。それは雪じゃなくて、真っ白な羽。そう僕はこの羽をよく、知っている。
――――様……
真っ白な羽を持つペガサスに乗っていた少女。そう少女が何時も乗っていた。蒼い髪と瞳を持つ真っ直ぐな視線を僕に向ける少女。真っ直ぐな瞳の、少女?
……様っ!……
そう僕の名前を呼んで、時々子供のような笑顔で僕の名前を…僕の名前?…僕は、誰だ?
「…僕…は……」
そうだ、僕は誰だ?そして少女は?どうして僕はここにいるのか?どうして僕はここに、こんな所にいるのか?僕は一体誰なのか?僕は…僕は……。
「…ぼ…く…は……」
ふわりとた羽が降って来る。それと同時にペガサスの羽ばたきが聴こえてくる。僕はそれだけが頼りとでもいうように必死で空を見上げた。視界にぼんやりと映る、白いペガサス。……そしてその上に見えるのは、蒼い髪。蒼い、髪…蒼い、瞳…そう少女の名は…シーダ……僕の…何よりも大事な…少女……。
「マルス様っ!!!」
近付いてくるペガサスと、その蒼い髪とそして。そしてその名前に、僕はふと安堵感を覚えてそのままその場に崩れ落ちた。
ただひとつの、嘘。ただひとつだけ、私は。
私は嘘をつきました。ただひとつ、だけ。
―――永遠に許されない罪を…背負ってまで私は……
ぽたりと暖かいものが、頬に落ちた。その感触に僕は重たい瞼を開く。その瞬間飛び込んできたのは、白じゃなかった。一面の、蒼、だった。
「…マルス様…気が付かれたのですね…よかった……」
僕が目を開けたと同時に飛び込んでくる少女の顔。大きな瞳は涙に濡れて、そして。そしてその瞳からは何度も何度も熱い雫が零れて来る。蒼い、髪。蒼い、瞳。僕のただひとつの。
「…ごめんね…シーダ…君を泣かせてしまったね……」
そっと手を伸ばしてその頬に触れた。その瞬間びくりっと僕の目にもはっきりと分るほどにその身体が震えた。大きな瞳が驚愕に見開かれ僕を見つめている。
「…あ、ごめん…驚かせた?……」
「……い、いいえ…何でもないのです…ごめんなさい……」
そう言って君は微笑った。その顔がひどく哀しげで、切なかったから。僕は君にそんな顔をさせたくないとただ。ただそれだけを想った。君の本当の笑顔が、見たいと。
「…ごめんなさい…マルス様……」
そう言って睫毛を降ろせばそこから零れるのは涙の雫。ぽたりと零れる雫。綺麗で切ない、涙を。その涙を僕はただ拭うことしか出来なかった。ただ、拭う事しか。
君が微笑ってくれればそれでよかった。
本当に微笑ってくれたら、僕は。僕はそれだけで。
それだけで良かったんだ。だから。
―――だからどうか、微笑ってください。
「…何も…思い出せないんだ…君の名前以外……」
やっとの事で自分の状況を把握できるようになって、僕はその事を君に告げた。そう、僕は何も覚えていない。自分が誰で、どんな事をしていたのかも。どうしてあそこにいたのかも。覚えているのはただ。ただ君の名前だけだった。
「…マルス様……」
あ、また君に哀しそうな顔をさせてしまった。そんな顔をさせたくはないのに。それなのに、僕は。僕は、また。
「ごめん、そんな顔しないで。でも君の名前だけは分ったんだ。それだけは分ったんだよ、シーダ」
真っ白なペガサスに乗る少女。蒼い瞳と髪を持つ少女。それだけが僕の記憶の中におぼろげに残っていて。残っている、から。
「…マルス様…私は……」
思いつめたような顔で僕を見つめるから、それが苦しかった。苦しくて、切なかった。どうしたら君は微笑ってくれる?どうしたら、微笑ってくれる?
「あ、シーダ…その僕は今までどうしてたか教えてくれるかい?…少しでも思い出せるかもしれないから…」
変だろうか?自分の記憶がない事に関して僕は全然焦りも恐怖も感じていない。ただ。ただ目の前の彼女が哀しそうな目をする方が気になって。そればかりが僕の頭を支配して。
「マルス様はアリティアの王子様です。そしてこの大陸の勇者です」
そんな僕の思いを反らすかのように君は僕に『事実』を、話し始めた。
アカネイア大陸のハーディン皇帝を倒し、そして暗黒竜メヴィウスを倒し。僕はこの大陸の勇者になったのだと。ニーナ王女は僕にこの国の全てを託し、消えたとの事だった。つまり僕は実質この大陸の王で、この国を導く者だという事だった。
「…マルス様は…婚礼を控えていた数日前にタリスで起きた騒動を片付けに行く途中で行方不明になりました…私はマルス様をずっと捜していました…」
「どのくらい、行方不明だったんだ?」
「―――五日間ほどです…来週には婚礼も控えています…なので早く良くなってください」
「…婚礼って君とかい?……」
「…マルス様……」
「記憶はないけど、でも分かるよ。僕は君を好きだった事は。記憶がなくても…シーダ……」
「…マルス様…私……」
何かを言い掛けて、そして。そしてその言葉をそっと飲み込んで、君は。君は微笑った。その顔は何よりも綺麗に見えた。綺麗に見えて、そして。そして切なかった。
「…私も…マルス様が…好きです……」
君の瞳がまた。また涙に濡れたから、僕は指を伸ばしてその涙を拭う。そしてそっと君を抱きしめた。一瞬びくりと震えた身体がゆっくりと弛緩して、僕に体重を預けてくる。それが何よりも愛しいと、思った。何よりも、愛しいと。そして。
そしてそのまま君の髪を撫でながら瞳を合わせて、キスをした。触れるだけのキス。そっと、触れるだけのキス。でもそれでも想いは伝わると。伝わると、思ったから。
「…好きだよ、君が…記憶がない事よりも、君が微笑ってくれない方が…僕には気になったから……」
「…マルス様…嬉しいです……」
「…シーダ……」
「…夢でも、嬉しいです……」
「…ありがとう…マルス様……」
微笑った。君が微笑った。その顔が見たかったんだ。本当の君の笑顔。
その笑顔が見られれば、僕は。僕はそれだけで。それだけで、いいんだ。
本当に初めから、ずっと。ずっとそれだけが気になっていたから。
―――君の笑顔が…見られれば……