―――――憧れが恋になった瞬間、気がついた。その瞳が何を追い駆けているのかも。
それでも好きだと告げる俺は愚かなのですか?その視線の先に気付きながらも、告げずにはいられなかった俺は。それでも俺は自分に嘘は付けないから。
「…ありがとうクリスさん…例え一時の気の迷いでも…その気持ちは嬉しいわ」
優しく穏やかな笑み。どんな時でも絶やす事のないこの笑みに俺はどれだけ救われてきただろうか?気持ちがくじけそうになった時、心に迷いが生まれた時、振り返ればそこにあったこの笑みに。どんな時でも変わる事のない全てを包み込む優しい笑みに。けれども。
「…でも私は……」
けれども俺は気付いてしまった。その穏やかな笑みがそっと静かに歪む瞬間を。穏やかな笑みの先にあるただひとつの憂いと哀しみを。そんな顔を俺の前では決してしない事も。そんな表情をさせる事すら、出来ない事を。
「パオラ殿。俺のこの気持ちは決して一時の気の迷いでもないし…それに俺は貴女が俺を見ていない事も知っている。それでも告げたかった…好きだって。俺は貴女が好きだって」
「…クリスさん……」
「俺は貴女が好きだ。貴女がいたから頑張れた。どんなに辛くても苦しくても、俺は乗り越える事が出来た。それに」
こんな時にどんな顔をすればいいのか分からなくて、分からなかったから微笑ってみた。自分でも不思議なくらいに心からの笑顔が出来た。
「俺にとって貴女は初めて…初めて好きになったひとだから……」
恋をする事なんて俺には縁のないものだと思っていた。誰かを特別に思う事など、そんな当たり前の事がどうしてもぴんと来なくて、自分にとって無縁のものだと思っていた。けれども今。今こんなにも俺は貴女が好きで。貴女だけが好きで。
「だから知っていて欲しかった。俺が本当に貴女を好きだと言う事を。それだけを言いたかったから」
振り向いてほしいとか、自分のものにしたいとか、そんな感情が湧き上がるよりも先に芽生えた想いがある。その想いがあるから俺は貴女に告げたかった。ただ伝えたかった、好きだと。貴女が好きなのだと。
「―――好きです、パオラ殿。本当に今はこの言葉しか浮かんでこない」
貴女が好きだから、俺は。俺は貴女に微笑って欲しかった。穏やかな笑みよりももっと先にあるただ幸せな笑顔を、見たかった。それだけを、想った。
―――――真っ直ぐな瞳で告げられる言葉が、今はただ。ただ苦しかった。
本当は心の何処かで甘えていたのかもしれない。屈託のない笑顔でそばにいてくれる貴方に、私は気付かない間に寄りかかっていた。
「…弟みたいなんて…本当は…ただの都合のいい言葉でしかないのに…」
「パオラ殿?」
堪えて閉じ込めた想いは、私が想っていたよりもずっと。ずっと私を傷つけ苦しめていた。どんなに口許で微笑おうとも、少しずつ綻んで溢れだしていたのに。溢れて零れた苦しみと傷は私を歪めていたのに。それでも堪えて、必死に堪えて…
「…そんな言葉で誤魔化して私は卑怯ね……」
堪え切れなくなってどうしようもなくなった時、貴方がそこにいた。気付いたら一番近くに貴方がいてくれた。そんな貴方を『弟』という言葉で自分の都合のよい存在にすり替えて、そばにいてくれる存在に私は無意識のうちに寄りかかっていた。どんな理由をつけても貴方は肉親でも弟でもなくただの一人の男の人なのに。
「貴方はちゃんと私を見てくれていたのに。誰よりもそばにいてくれたのに…私は自分の事ばかり考えていて…貴方はこんなにも近くにいてくれたのに……」
叶う事のない想いを抱き続ける事で貴方という存在の意味から逃げていた。本当は何処かで分かっていたのに。何処かで気付いていたのに。なのにこの生温い関係が心地よくて、本当の事から目を逸らしていた。卑怯な事だと分かっていても、自分の心の傷の大きさを何よりものいい訳にして、貴方という存在を歪めていた。
「…私は…自分の弱さをいい訳にして貴方を自分の都合のいい存在にしていた……」
優しいから、貴方が優しいから。不器用だけど真っ直ぐで、子供のようなのに本当はずっと大人で。何も知らないようでけれども一番大切な事を知っている人。どうしようもなく愚かな私をそっと包み込んでくれる人。そんな貴方の優しさが私をどうしようもなく嫌な女にさせる。
「―――いいんです。都合のいい相手でも。どんな理由だろうと俺がパオラ殿にとって必要な存在になれるなら。こんな俺でよかったらどんどん利用してください」
微笑う、貴方。こんな時にどうしてそんなにも優しく微笑う事が出来るの?どうしてこんなにも貴方は優しいの?優しすぎるの?
「…クリスさん…私は……」
優しくて、優しすぎて。貴方の笑顔が滲んでゆくのを止められない。止める事が、出来ない。
「…パ、パオラ殿っ…その…あの泣かないで…ください…俺は……」
不器用に伸びてくる大きな手。今初めて気がついた、貴方の手がこんなにも。こんなにも大きなことを。私の全てを包み込んでしまう程の、大きな手のひらだという事を。
「…俺は…その…貴女の涙は……」
「…ごめん…なさい……」
優しい指先がぎこちなく私の涙を拭ってくれる。それは決してスマートな動作ではなかったけれど、それが逆にぬくもりを感じられて。あたたかさが、伝わって。
「…貴方が優しいから…優しすぎるから…私は……」
「――――泣いて、ください」
大きな手のひら。不器用な指先。その全てがとても。とてもあたたかくて。とてもやさしくて。優しすぎるから。
「…クリス…さん?……」
「泣いてください。俺ので良かったらここ使ってください」
そう言って自分の胸を叩く貴方は真っ直ぐで真剣だった。何よりも真面目な顔で、私に告げるから。だから、私は。
「…う、…ううっ…ぁぁぁっ……」
その胸に飛び込んで泣いた。何に対して泣きたかったのか、もう分からなくなっていた。けれども泣いた。声を上げて泣いた。ただひたすらに声を上げて。
ずっと泣く事は出来なかった。両親を亡くした時も、恋が叶わなかった時も。私は姉として母親代わりとして、そうやって生きてきたから。だから忘れてしまっていた、こうして子供のように泣く事を。こんな子供みたいに声をあげて泣く事を、私はずっと遠い昔に忘れてしまっていたから。
本当はずっと。ずっと、こんな風に泣きたかったのに。子供のように泣きじゃくりたかったのに。
子供のように泣く貴女はとても小さくて。こうして少しでも力を込めから壊れてしまいそうで。けれども。
「パオラ殿。俺はそんな風に泣く貴女も好きです。大好きです」
けれども、愛しかった。何よりも大切だった。そっと抱きしめて護りたかった。全てのものからこのひとを護りたいと想った。
「…クリス…さん……」
そっと手を伸ばし、髪を撫でる。貴女が俺にしてくれていたようにそっと。そっとその髪を撫でる。貴女みたいに上手くは出来ないけれど、それでも伝わればいいと想った。少しでも伝わればと。
「こんな俺でよかったら、これからもそばにいさせてください―――俺はそれだけでいいんです」
俺の願いはただひとつ。ただひとつ、貴女が屈託なく微笑ってくれること。ただそれだけだから。
「…はい…クリスさん…こんな私で良かったら…そばにいて…ください……」
優しい指先から伝わるぬくもりがゆっくりと傷を溶かしてゆくのが分かる。これはやっぱり甘えなのかもしれない。貴方の想いを利用しているだけなのかもしれない。けれども。けれども私は初め他人の前で声を上げて泣いた。誰にも見せる事のなかった涙を貴方の前に曝け出した。
「…そばに…いてください……」
それはきっと意味のある事で。どんな理由であろうとも私は、貴方という存在が必要だから。他の誰でもない貴方だけが。
―――――微笑ってください。俺はあなたが心から微笑ってくれる事だけが…ただひとつの願いだから……