ひとひらの雪、手のひらの嘘 <後編>



ずっと、このままでいられたならばと。

分っているこれは夢。瞼を開いたら終わる夢。
それでももう少しだけ。神様もう少しだけ。


―――このひとを、私に、ください……



あれから数日が過ぎたが僕の記憶は戻らなかった。本当はすぐにでも無事を知らせ祖国へ帰らなければならないのは、記憶をなくした僕にでも分かる。けれども身体はまだ所々軋んでいう事を効かなかったし…何より僕は。


…どうしてだろう…何故か…思ったんだ。この時間を壊したらもう二度と君に出逢えないのではないかと…ふと……


「マルス様、ご飯作ってきました」
ここが何処なのか、僕には分からなかった。ただ君がいてくれればそれで良かった。君がいてくれるから不安なんて何一つ浮かんでこなかった。
「ありがとう、シーダ」
僕と君以外誰にも人に逢う事はなかった。このひっそりと山奥に立つ小屋に誰も他人が寄ってくることはない。それを不思議に思う事も、今の僕にはなかった。
「ちゃんと食べてくださいね」
食料は君がペガサスに乗って下山して持ってきてくれたし、生活する上での一通りの道具はここに揃っていた。そして何よりも、僕は身体が完全に回復をしていなくて動けなかったから。
「ああ、君の作ったものだから残しはしないよ」
来週には婚礼を控えていると君は言っていた。そして僕はアリティアの王子だと。本当ならばこんな時間を過ごせることはないのだ。こんな風に穏やかな時間を過ごせる事はないのだろう。
それでも僕はもう少し。もう少し君と、一緒にいたかった。



幻想の楽園。夢で作り上げたもの。
そこにぽたりとひとつ水を零したらその瞬間に。
その瞬間に全てが崩れてゆく。崩れて、なくなってしまう。
終わりが来ることは、分かっている。分かっていても。

―――もう少しそばに…いたかったから……



食事を終えて一日を終えようとしたその時、僕は君を抱きしめた。寝る前に必ず心配そうに覗く君を、僕はそのまま腕の中に抱きとめる。そしてそっと、キスをした。
「…マルス様…ダメです…まだ怪我が……」
キスをしながら服に手を掛ければ、君の身体がびくんっと揺れる。そして僕を軽く引き離して、困ったような顔でそう言った。
「…シーダ…でも僕は君が…欲しいんだ……」
もう一度抱きしめれば一度身体を硬直させるが、そっと身体を預けてくる。そのまま僕は柔らかい髪を撫でながら、もう一度キスをした。
「…マルス様…私は……」
「…僕は…『君』が…欲しいんだ……」
その言葉に君は微笑った。淋しそうに、嬉しそうに微笑って。そして。そして初めて君からキスをして、くれた。



…神様、私の背負う罪をどうか…どうかこの人に…与えないでください……



「…んっ…ふぅ……」
服の上から弾力のある胸を揉めば、ぴくんっと細い肩が揺れる。唇を合わせながら、しばらく僕は胸の感触を布越しに感じていた。
「…ん…んん…はぁっ……」
胸から一端手を離すと、そのまま服を脱がせた。白い肌が僕の眼下に暴かれる。それはひどく綺麗、だった。
「…マルス…様…あっ……」
直接胸の膨らみに触れれば、柔らかい感触で手のひらを満たしてゆく。布越しとは比べものにならない柔らかさだった。それを感じながら僕は強くそれを揉んだ。
「…ああんっ!……」
乳首を指で摘まんだら君の身体がぴくんっと跳ねた。その様子が愛しかった。愛しくて、堪らなかった。
「…あぁ…ん…マルス…様…はぁ……」
「…シーダ…好きだよ…シーダ…」
「…あぁ…あ…はぁっ……」
一方の胸を指で弄りながら、もう一方のそれを口に含んだ。尖った突起を舌で嬲りながら、揺れる乳房の感触を楽しむ。何度も何度も吸いながら、朱に染まってゆく肌の色を楽しむ。
「…マルス…様…はああっ…あっ!」
胸から指を離し、そのまま下腹部に手を這わす。わき腹から臍のラインを辿って、下着を剥ぎ取った。そこから見える薄い茂みを掻き分け、一番深い場所へと指を触れた。
「…ああんっ…あんっ!……」
くちゅっと濡れた音と共に僕の指が君の秘所へと入ってゆく。狭く窄まった入り口を掻き分けながら、奥へと指を埋めていった。
「…あぁ…あん…あんっ……」
指先に湿り気を感じながら、僕は指を折り曲げ中を掻き乱す。締め付ける媚肉の抵抗を楽しみながら、何度も何度も中を掻き回した。そして。
「…あっ……」
指を引き抜いた感触に、君の身体が震える。それすらも、堪らないほどに愛しくて。そして。
「―――いい?……」
耳元で囁いた言葉に小さく頷く君を…愛していると、思った……



ごめんなさい、私はやっぱりただの『女』なのです。貴方を愛するただの女なのです。



「―――あああっ!!」
ずぶりと音を立てながら、君の中へと挿ってゆく。熱くてきつい君の中へと。その瞬間僕の脚に生暖かい感触が、伝わってきた。それは血、だった。
「…シーダ?……」
それはまぎれもなく君が処女だという証だった。君の太ももにどろりと血が伝っている。そして見下ろせば苦痛に歪む顔。形良い眉を歪ませて、苦痛に喘ぐ顔。
「…あぁぁ…あぁ…はあああっ!!」
僕の問いにも答えられないのか必死に耐えながら、声を零す君。そんな君が僕にとってはもうどうしようもない程に。
「…愛しているよ…君だけを……」
「…マル…ス…様……」
汗でべとつく前髪を掻き上げて、その額にキスをした。愛しかった。ただひたすらに愛しかった。この腕の中に生きている命が、どうしようもない程に愛しかったから。
「…私も…です…マルス…様……」
背中に廻される腕が必死に僕にしがみ付く。その暖かさを強さを感じながら、僕は腰を動かした。その刺激にまた君の顔が歪んだが、背中の手は離される事はなかった。必死になって僕にしがみ付いているから、だから。
「…あああ…ああ…ああああっ!!」
――――だから僕は行為を止めずに、君を最奥まで貫いた。



「…マルス様…好きです……」
ぽたりと零れ落ちる涙が、綺麗だと思った。
「…僕もだよ…僕も君だけが……」
何よりも綺麗で、そして哀しいと思った。
「…君だけが好きだよ……」
哀しいと、思った。


―――シーダ…と名前を呼ぼうとして何故かその言葉が口から零れて来なかった……。




窓の外から聴こえてくる音は、しんしんとした雪の降る音だった。私はそっと気付かれないようにベッドから起き上がると、小さな窓の外を覗き込んだ。真っ白な雪が、そっと降っている。
「…マルス様……」
寝顔を見下ろせば、穏やかな表情と静かに聴こえてくる寝息。そっと手を触れようとして、宙に浮いた所で…止まった。
「…ごめんなさい…マルス様……」
触れたかったけれど、その頬に触れたかったけれど。でもこれ以上の罪を私は許されはしない。ううん初めから…許されはしなかったのだ……。
「…私はシーダじゃないのです…マルス様……」
私は嘘を付きました。ただひとつだけ嘘を、付きました。貴方が私を『シーダ』と愛しそうに呼ぶから、私はただひとつ嘘を付きました。
「…貴方の記憶がない事をいい事に…貴方が混同している事をいい事に…私はシーダ様に成りすましました……」
報われない想いだと、分かっていた。許されない想いだとも、成熟されない想いだとも。それでも私は。私は構わなかったのに。
構わなかった筈なのに、貴方が『シーダ』と呼んだ瞬間に、そんな想いは何処かへと飛んでしまいました。
「…身代わりでもよかった…何でも良かった…貴方が好きだと言ってくれたから…それだけでよかった……」
貴方が、好き。貴方だけが、好き。貴方の心が誰にあろうとも、貴方が誰を思っていても、ずっと。ずっとずっと、好き。だから。
「…ごめんなさい…マルス様…ごめん…なさい……」
零れ落ちる涙が貴方の頬に当たっても、私はそれを拭うことが…出来なかった……。



ひとひらの雪が、零れてきて。そっと零れてきて。
貴方が目を開いた瞬間に、全てのものが消え去って。
そして。そして私はただひとつのものを望んだ。


―――女として…貴方だけを、望んだ……




「…さよう…なら…マルス…様……」



笑おうとしたけど、口許が上手くゆかなかった。貴方が見ていないから意味のない事かもしれないけれど。でも貴方は言ってくれたから。
…笑った顔が好きだって、そう言ってくれたから……
たとえそれが無意識にシーダ様への言葉だとしても、私は。私はその瞬間の気持ちを信じたかったから。信じたかったから……。



一面の雪。降り続ける雪。
その雪に溶けてしまえたらと、思った。
貴方に愛されたこの瞬間だけを胸に。
この胸に閉じ込めて、そして。
そして溶けてしまえたら…と思った……。





……さようなら…マルス様…誰よりも愛していました……







目を開いた瞬間に、飛び込んできたのは幼さの残る少女の泣き顔だった。蒼い瞳、蒼い髪。そして一面の蒼が僕の視界を埋めたと思ったら、その細い身体がぎゅっと僕に抱き付いてきた。
「…マルス様よかった…ずっと捜していたのに見付からなくて…よかった…よかったマルス様……」
ふわりと揺れる蒼い髪。その髪をそっと撫でた。指に馴染むこの感触は、僕が良く知っているものだった。
「…シーダ……」
「…マルス様…マルス様……」
そうだ、僕は。僕は君の故郷が襲われたと聴いて急いで向かったんだ。その途中にドラゴンナイトに襲われて、崖から落っこちて…そして。そして?
雪、だった。真っ白な雪の上に僕は落とされていた。もう死ぬのかと思っていた瞬間に、君が飛んできて僕を助けて。助け、て?

―――違う…君は今、ここにいる……

「でも良かった…本当に良かった…カチュアが…知らせてくれなかったら……」
「…カチュア?……」
「…マルス様を山小屋で発見したって…伝えてくれたのです…だから私……」


君は何時も淋しそうに微笑っていた。
淋しそうに、哀しそうに微笑っていた。


『…さようなら…マルス様……』


あの言葉は夢じゃなかったのか?
泣きながら君が僕に告げた言葉は。
ごめんなさいと言いながら告げた言葉は。
…君は…君は……


「…シーダ…僕は……」
「…カチュアに…言われました…花嫁をほったらかしておくなんてひどいねって…でも私は…マルス様が無事ならがそれで……」
「…カチュア…は、何処に?……」
「マケドニアへと帰りました…マルス様にごめんなさい、しあわせになってくださいって…言ってました…」
「……」
「…結婚式には行けなくてごめんなさいって……」



ひとひらの雪、手のひらの嘘。
君がただひとつだけ僕に付いた嘘は。
ただひとつだけ、付いた嘘は。


「…シーダ…僕は……」
「…私はマルス様が無事ならばそれだけで…いいです…」
「…シーダ……」
「…大好きです…マルス様……」



嘘じゃなかった。あの時君を好きだと思ったのは。
あの時君を愛していると思ったのは嘘じゃなかった。


―――さようなら…マルス様……


それでも僕はこれから先アリティアの王子として、そして。そして生きてゆく。この腕の中の小さな命と共に。それが僕が歩むべき道。僕が選んだ道。そして。
…それが君が僕に与えてくれたもの…だから……


君が背負う罪は、僕の胸にも宿っている。
君が独りで抱えようとする罪は、僕の中にもある。


だって確かに、あの瞬間…僕は君を、愛していたのだから……




「…ごめんね…シーダ……」




ひとひらの雪が、手のひらから溶けていっても…この罪と想いは永遠に残るのだろう。
誰の手にも目にも触れることなく、互いの想いの中に永遠に残るのだろう。