十字架



彼の背中には大きな十字架が掲げられている。それを今知っているのは私だけなんだという事実が心の奥底に暗い悦びを与えた。


「レイヴァン様、もう復讐など…止めてください」
本当はとうの昔に気付いていた。彼が囚われているものが、私には見えていた。
「…それは出来ない…今更俺は…」
分かっているから告げる。それを『今』止められないと分かっているから、告げる。告げてそして確認する事が、今の私にとっての背徳の悦び。心の奥の闇。
「今更俺は、他の生き方なんて…選べない…」
「―――レイヴァン様……」
真っ直ぐ過ぎるくらい真っ直ぐな人だった。何時も光に包まれている人だった。だからこそその光の全てが失われた瞬間、何もかもを失った瞬間、いとも簡単に闇に囚われ絶望へと堕ちていった。本当に、あっけない程に。
「何もない俺には、もうそれしかないんだ」
少し歪んだ口許で微笑う。けれども瞳は笑っていない。ただ笑みの形を作っているだけだ。それが今の貴方にとっての精一杯なのだろう。その表情が、私に向けられる精一杯。
「私がいます。私はずっとレイヴァン様のそばに」
向けられた暗い瞳にそっと微笑って貴方の身体を抱きしめた。傭兵家業を始めてから、筋肉は鍛えられ逞しくなった筈なのに。なのにどうしてだろう?こうやって抱きしめれば、ひどく小さな身体だと感じるのは。


貴方は私を光だといった。穢れを知らない光だと。だから癒されるのだと。
でもそれは嘘だ。だってもしも私が完全なる光ならば、貴方は復讐など望まない。絶望に落ち、闇に囚われたりはしない。


だって私は光ではない。私は、本当は貴方よりもずっと。ずっと闇に落ちている。


もしも私が本当に貴方にとっての光になれたならば。貴方にとっての道標になれたならば。
「どんなになっても、貴方のそばに」
今ここに私はいないだろう。貴方のそばにはいないだろう。貴方にとって最期の『家族』としてこうしてそばには。
「それだけが私が貴方に出来る事ですから」
貴方にとっての十字架は私。貴方を縛っているのは私。最期の家族という存在に摩り替えて、そして復讐に囚われるように。それ以外見えないようにしているのは…本当は…私。


身体を結びたい訳じゃない。その肉体が欲しい訳でもない。貴方の心を願った訳じゃない。貴方の魂を穢したかった訳でもない。
ただ。ただ私は。私は貴方の『唯一』になりたかった。


復讐から、過去から、開放して。そして最期の拘りである私という存在を消せば、貴方は自由になれるだろう。全てを喪失すれば、後は再生しかないのだから。
「…お前だけは…そばにいてくれ、ルセア…お前だけは……」
けれどもそれだけが出来ない。貴方の淋しさにつけ込んで、それを復讐へと摩り替えて。そして。


そして私は貴方のただひとつの『依存』になる。


それを愛だと勘違いする貴方を私は手に入れる。肉体でも心でもないもので手に入れる。
それがたとえ歪んだモノでしかなくても。けれども最期まで歪め続ければ、それは相手にとって真実になる。死ぬまで嘘を着き続ければそれが本人にとっての本当のことになるように。



束縛することしか知らなかった。それ以外の方法で貴方を手に入れる術を、知らなかった。