雪の華



手、冷たいから。ひんやりと、冷たいから。だから暖めてあげる。そっと、暖めてあげる。


真っ白な雪の華が頭上からそっと降って来る。それは髪の先に掛かり、ゆっくりと落ちてくる。落ちた白い塊が頬を滑り大地に零れた瞬間、大きな手が雪の代わりに頬に重なった。
「冷てーぞ。何時からここにいた?」
白い息とともに零れる言葉にエリウッドは笑みで答えた。そしてそのまま頬に重なった手に自らの指先を絡めた。少し冷たくなった指先を。
「…ってあんまり前じゃねーな、良かったぜ」
重なり合った指先の体温を確認してから、ヘクトルは軽い溜め息とともに答えた。下手をしたらこの目の前の親友は、寒さなど忘れてこの場に立ち尽くしかねないのだ。目の前の雪に見惚れて自分自身の感覚すら忘れて。そして気付いた時には凍えるほどに冷たくなって…それが昔から知っている幼馴染の困った所だから。
「冷たくなる前に君が来てくれるって思ってたよ、ヘクトル」
絡めてきた指先に少しだけ力を込めて告げるエリウッドに、ヘクトルは不貞腐れたような顔でため息をひとつ付いた。確信犯なのか天然なのか微妙なところだが、その一言は確実にヘクトルの説教を止める効果があるのだから。
「全く、お前は…俺を躍らせるのがうめーよっ!」
現に今も完全に自分は降参してこうして。こうして少し冷えたエリウッドの身体を抱きしめてしまうのだから。


想い出は楽しいほうがいい。楽しいことだけを刻みたい。
見えている未来と与えられる現実が逃れられないものならば。
それならば少しでも。少しでも楽しいことを積み重ねてゆこう。
嬉しいことだけを思って。それだけを思って。
それだけで満たされたならば、離れても淋しくないから。


―――今繋がっている手が離れても、淋しくないように。楽しいことだけを、刻んでゆこう。


ヘクトルの腕の中から身体を反転させてエリウッドはその広い胸に体重を預ける。そして片方の手を取ると、自らの手のひらに重ねた。
「形、こんなにも違うんだね」
重ねた指の大きさの違いにエリウッドは苦笑した。子供の頃は自分の方が大きかったくらいなのに、今はこんなにも差が付いている。指の大きさでさえ、こうして重ねればヘクトルの方が少しだけはみ出ている。当然肉の付き方も違う訳で。
「しょーがねえだろ?お前は剣、俺は斧。腕の使う筋力だって全然違うだろーが」
「うん、そうだけれどね。でも」
「でも何だよ」
上から自分を見下ろせる身長差とか、自分をすっぽりと包み込んでしまえる体格差とか、そんな所が。そんな所がエリウッドにとって微妙な気持ちにさせる。こうして包まれることに安心感を覚える反面、この場所が何時か失われる恐怖に。
こうして全てを預けて安らげば安らぐほど、自分の弱さが剥き出しになってゆくことが怖かった。それは何時も微妙なラインでエリウッドの心を行き来して、そして。そして安らぎと不安という矛盾した二つの思いを同時に与えるのだ。
それはどうしようもない事で。それはどうにも出来ないことで。だからこそ。だからこそ、こうして触れている肌のぬくもりだけが、今のエリウッドにとっての『絶対』になる。
「でも、悔しい」
昔は同じだった。きっと同じだった。身体の大きさも、目指しているものも、大事なものも。誰よりも身近にいて、そして誰よりも分かり合える相手だった。
今では馬鹿みたいに思えるような小さな秘密を必死で分け合って、それが何よりも大事なものだった。ふたりにとっての宝物だった。けれども、もう。もうあの頃には戻れない。二人の道は少しずつ別の方向へと進み始めてしまったのだから。
もう振り返ることは許されなくて、後戻りは出来なくて。少しずつ離れてゆくのを、止める事は出来なくて。だからこそ。だからこそ、今が。
「いーんだよっお前は俺より細くて、小さくて…でないとこんな事出来ねーからっ!」
背後からぎゅっと抱きしめられる。本人にとっては少し手加減しているつもりだろうけど、力のあるヘクトルだからエリウッドにとっては充分痛いものだった。けれどもその反面、その強さがひどく嬉しかった。
嬉しかった。本当に馬鹿みたいだけど…このままずっとこうしていたいと、願った……


空からそっと雪の華がふたりに降りてくる。そっと、降ってくる。
触れては溶けて消えてゆくその白い華はひんやりと冷たくて。冷たかったから。
だからずっと指を絡めていた。ずっと触れ合っていた。そうやって。
そうやって感じる温度とぬくもりが、とても優しかったから。だから。


――――だからひどく。ひどく、泣きたくなった。


君が大事だよ。本当に僕にとっての一番はずっと君だった。
「…ヘクトル……」
それが永遠に変わらないって事を証明できるものがあればいいのに。
「ん?」
変わらないものかあるんだって、君に伝える術があればいいのに。
「…唇が寒いって…言ってもいい?……」
そうすれば今この瞬間に繋がった指先が離れたとしても。
「――――バーカ………」
何も怖いものなんて、なくなるのに。


触れ合った唇が。そっと重なった唇が。優しければ優しいほどに、切なかった。


君といる未来を心の何処かで願っていた。ありえないと分かっていても、何処かで祈っていた。この手を離す日が永遠に来なければと。この場所がずっと自分だけのものであればと。


僕が何も持たずに、何者でもなかったら、ずっと君のそばにいることが…出来たのかな?


でもそうだったなら、君に出逢えなかったかも知れない。こうして君と同じ場所に立つ事も出来なかったかもしれない。こうして君と…君と指を絡めることも出来なかったのかも…しれない。
「エリウッド、大丈夫か?」
唇が離れた瞬間、ひどく狼狽したような顔が目に飛び込んできた。君のそんな顔も、好きだよ。何時も豪快に笑っているくせに、一番に他人の変化に気付いて心配してくれる君が。
「―――?どうして?ヘクトル」
好きだよ。君が好きだよ。本当に好きなんだ。君がいてくれるから僕は乗り越えてゆける。今をこうして乗り越えてゆけるんだ。
「…だってお前………」
君の癖。心配した時に眉毛の先が少し下がるんだ。多分それを知っているのは僕だけ。今は、僕だけ。それが何よりも、嬉しい。
「ん?」
絡まっていた手が外されて、大きな手のひらが僕の頬に掛かる。そしてそのまま。そのまま頬に伝った雫を…拭った……



「…違うよ、ヘクトル…これは雪が目に…入っただけだよ……」



楽しいことだけを刻んでゆこう。楽しい想い出だけを。
笑顔だけを刻んで。暖かいものだけを積み重ねて。そうしたら。
そうしたらきっと。きっと何時かこの時間を振り返った時。


――――優しい気持ちに、なれるから……


僕のついた嘘に君は眉毛の先を下げたまま…微笑った。何時もの口調で『バーカ』って言いながら。僕の小さな嘘を、心の隅で見逃してくれた。


こうしてふたりで見つめる雪の華がずっと降り続いてくれたらと…願った。