何処にもない永遠



初めて指を絡めてした約束は、多分きっと他愛のないもので。
記憶の奥底にそっと落ちてしまうほどの、本当にささやかなもので。


夢に見て、そして。そして目覚めたら、ただ。ただ少しだけ、切なくなるだけのもの。


それでもこの指を絡めて。その瞬間は、それだけを信じて。
何処にもないものを、小さな手で必死で捜していたのだろう。


―――何処にもない、永遠。何処にもない、約束。けれども、今この瞬間だけはそれを信じたかった。



何時も思っていた。馬鹿みたいに笑っていられたらと。どんな時が来ても、どんな事が起きても、何でもないと笑っていられたらと。
「―――ヘクトル……」
失ったものの余りの大きさに、エリウッドは呆然とした表情でやっとそれだけを言った。掠れた、震えた声で、自分が唯一弱さを曝け出される相手の名を呼んだ。
「…ヘク…トル……」
何時もよりも、ずっと。ずっと小さく見えた。微かに揺れた肩が、彼をひどく華奢に見せた。剣を握っている時は、戦っている時は、誰よりも強く大きく見えたのに。
「――――」
今にも崩れ落ちそうな身体を抱き止めたくて、手を伸ばした。けれどもヘクトルの手は宙に浮いたまま、エリウッドの身体を掴む事はなかった。否、掴めなかった。自分の顔が、ひどく強張っている事に気付いたから。気付いて、しまったから。
何時でもどんな時でも、笑っていたかった。笑っていられると思った。この親友が剣を取り、重たい運命を受け入れた瞬間から、ずっと。ずっと自分は笑っていられると、そう。そう思っていたのに。
今自分の顔は情けないほどに強張ってくる。口許に笑みを浮かべようとしても、滑稽なほどに歪むばかりだ。


エリウッドはあまり、笑わなくなった。声を立てて笑う事が少なくなった。戦いが進めば進むほどに、本来の顔を廻りに見せなくなっていた。
それをマーカスなどに言わせれば『自覚』だとか『成長』だとかそんな言葉になるのだが、ヘクトルにとってはそれは全く別の意味になっていた。そう、別の意味だった。
エリウッドにとってそれは『鎧』だった。自分を護る為の、自分を見失わない為の。そうする事で不安な心を、弱くなる心を、護ろうと必死だったのだ。
だからこそヘクトルは逆に笑った。この親友の心を少しでも自分がふっきらさせる事が出来たらと。今抱えているものは、こんな風に笑い飛ばせるようなものだと。例えそれが分かりやすい嘘であっても、そうせずにはいられなかったのだ。
だから今も。今も笑おうとした。不謹慎だと分かっていても。自分までもが今ここで泣き叫んでしまったら、ここにある現実が本当に。本当にその全身に突き刺さり、全てを崩してしまいそうだったから。


でも、微笑えなかった。強張る顔は不安にさせると分かっていても。
「―――エリウッド……」
誰にも見せない彼の弱さを、受けとめられるのは自分だけと分かっていても。
「…ヘク…ト…ル………」
足許から浸透する彼の哀しみが、自分の中に溢れて零れてゆく。


それ以上何も言えなくなったエリウッドはヘクトルから視線を外して目の前に転がった死体を抱きしめて、嗚咽をした。声を上げて泣いた。自らの『父親』だった物体を抱きしめ。壊れるほどに抱きしめ。そして泣いた、叫んだ。今まで築き上げてきた『鎧』を壊し、自ら壊れるように泣いた。
そんなエリウッドにヘクトルは何も出来なかった。何も出来ずに、胸に突き刺さるその声をただ。ただ受け止めるのだけで、精一杯だった。



『―――もっとずっと先に…僕達が大人になっても……』



冷たいと思った。まだ冬は遠い場所にある筈なのに、とても冷たい。ひんやりと、冷たい。冷たくて、心まで凍えてしまいそうだった。
さっきまで目の前にあった『死』は、今はまるで夢だったかのようにこの場所にはない。ただ静かに月の光りがふたりを包むだけだった。
「―――エリウッド……」
声を上げて泣いた後、エリウッドはそのままその場に崩れ落ちた。今まで必死になって自分を支えていた糸がぷつりを切れた瞬間だった。その時になってやっと。やっとヘクトルはエリウッドを抱きとめることが出来た。この腕の中に受け止めることが…出来た。けれどもそれでは遅すぎる。
「情けねえな、俺は」
今は静かな寝息と共にベッドに眠る親友に、ヘクトルは詫びる以外の言葉を浮かべる事が出来なかった。あんなにも決意し、自分に誓った事なのに。いざとなってみればこんなにも。こんなにも自分は弱く、そして情けない。誰よりも自分が一番分かっていたはずなのに、分かっている癖に何も…出来なかった。
「…情けねぇよ…俺は…本当に…お前を……」
リーダーである以上、皆を不安にさせることは出来ない。だから誰よりも強くなって、そして命を預けられるような人間になるのだと。だから弱さは封印すると。自分の心の弱さは、閉じ込めると。自分にだけ告げてくれたのに。自分の前でだけ、ありのままを曝け出してくれたのに。なのに、何一つ。いざとなったら何一つ出来なかった自分。何も出来ない、自分。
「…畜生っ…俺はっ……」
悔しさで噛み締めた唇から鉄の味がした。それが自らの血だと気付いても、今のヘクトルにはどうでもいい事だった。本当にどうでもいい事だった。それどころか忌々しささえ沸き上がってくる。余りにも無力な自分に、ただひたすらに腹立たしかった。



ふとした瞬間に、思い出す。まるで夢のかけらのように。
本当に些細な瞬間に思い出して。思い出して、ああそんな事もあったんだと。
そう呟いてまた。またゆっくりと。ゆっくりと心の奥にしまうもの。
ひどく優しく、ひどく切ない、そんな思いともに閉じ込めるとても綺麗なもの。


あの頃は子供だったから。あの頃は永遠を信じていたから。
何も知らなかったから。現実も、穢たなさも、何も。
何も知らなかったから、だからこそ出来た約束だった。


絡め指先。そっと、絡めた小さな指先。ずっと子供のままだったら、よかった。



そっと手を伸ばした先にある少し硬いその青い髪に触れた。この髪の感触を指先だけで覚えてしまっていたのは何時からだっただろうか?
「―――エリ…ウッド………」
触れた瞬間、ぴくりと肩が揺れて、そのまま自分を見上げてくる。そんな彼の憔悴しきった瞳を初めて見た。どんな時でも快活に、そして豪快に笑っている男の、そんな瞳を。
「…すまねー…俺は……」
大きな身体が今はとても小さく見える。不安になりそうな時に捜して見つけて、そして安心していたその大きな身体が。そんな身体は今はとても、小さく見えた。
―――自分のこの両腕でも、包み込めるのではないかと…錯覚するほどに。
「…ヘクトル…夢を、見たよ……」
「―――?」
告げた言葉に不思議そうな表情を浮かべて、自分を見つめてくる。まだ痛みを伴い、苦しげな色を滲ませながら。―――それが嬉しいと言ったら、彼は怒るだろうか?



忘れていたわけじゃない。ただ閉じ込めていただけだ。
「…夢を、見た。子供の頃の夢を……」
想い出は綺麗なまま、そっと。そっとしまっておきたかったから。
「ずっと昔に…君と僕がした約束の夢を……」
大人になった自分には、現実を知っている自分には、それはあまりにも。
「―――初めてした、約束を…覚えている?……」
あまりにも優しすぎて、切なすぎて、僕を傷つけるから。


それでも今は告げたい。今は縋りたい。今は、信じたい。永遠なんて何処にもなくても。



「一緒にいよう。ずっと一緒にいよう。悲しいことも楽しいことも、半分こしよう。だって僕達はずっと、親友だから。だから、ずっと…一緒だ……」



ヘクトルが告げた言葉にエリウッドはそっと微笑った。その笑みをヘクトルは生涯言葉として表現することが出来なかった。この時見せた笑みの意味を、どうしても表現する事が出来なかった。嬉しそうな、哀しそうな、切なそうな…そして、泣きそうなその笑みを。
「覚えていてくれたんだね、嬉しいよ」
「当たりめーだろっ!お前との約束、忘れる訳ねーよっ!」
どんな言葉を持ってきても、どんな表現をしても、そのどれもが嘘に思えたから。そして真実に思えたから。
「―――ありがとう、でも僕は」


「…忘れていたんだ…今の今まで…忘れていたんだ……」


大人になってゆくたびに、真実を知るたびに、ひとつひとつ無くしてゆく。大切なものを、失ってゆく。
「…エリウッド……」
ずっと一緒にはいられない。ずっとなんて何処にもない。永遠なんて何処にもない。それでも。
「ううん、閉じ込めていた。心の中の一番大事な場所に、閉じ込めていたんだ」
それでも今は信じたい。信じたいんだ。他の誰でもない目の前の相手にだけは、それを信じていたいんだ。だって僕は。僕は君の前でしか、子供には戻れないから。
「でも今思い出したから、だから」
現実に僕を襲った父親の死。そこにあるリアル。そこにある痛み。そこにある哀しみ。こうして僕が進んでゆく道は、今ここに確かにある現実。
「だから今は…一緒に……」
道は別れている。僕らはずっと親友だけど、ずっと一緒にはいられない。ずっと子供のままでもいられない。哀しみを完全に半分に分け合うことも出来ない。分かっている。それは、分かっている。けれども。けれども今だけは。今だけで、いいから。
「…一緒に…泣いてくれ…僕と…痛みを…哀しみを…分け合って……」
今だけでいい、信じたい。ここにあるんだと。永遠は今ここにあるんだと。


どちらともなく伸ばされた腕が、そのまま。そのまま互いの身体をきつく抱きしめ合う。ここにあるぬくもりは、真実だった。今重ね合っている暖かさは本物だった。確かに、本物だった。


支えて欲しいと願った相手はただひとり。
抱きしめて欲しいと願った相手はただひとり。
自分の弱さを見せられる相手はただひとり。
ずっとひとりだけだ。ずっと、ずっと。



「…ヘクトル…ヘクトル…そばにいてくれ…ずっと…ずっと……」



子供のように腕の中で泣きじゃくるエリウッドを抱きしめながら、ヘクトルは声を殺して泣いた。彼が望んでいたものは、どんな時でも強く笑っていられる自分ではなく、こうしてともに泣く事の出来る相手だと気が付いて。気付いて胸が、痛くなった。苦しくなった、もどかしくなった。
あの時、彼の哀しみで自分が溢れた時、ともに泣いて。泣いて、哀しみを昇華する事が出来なかった自分に。


後悔ばかりだ。後悔ばかりだった。けれどもそうしたすれ違いが、些細なすれ違いが、『時間』だった。ふたりが大人になるたびに、失ってきたものの積み重ねだった。



ふたりはずっと親友だけど、ずっと一緒にはいられない。ずっと同じものを見てはゆけない。ずっと同じものを追いかけてはいけない。


あの頃は本当に信じていたんだ。言葉なんてなくても分かり合えるって。
同じものをずっと見てゆけるんだって。夢はふたりのものだって。そんなものを、ずっと。



永遠なんて何処にもない。未来は手探りで、現実は容赦なく圧し掛かってくる。それでも。
「――いんよ、いてやるよ。ずっと俺はお前の盾になるって決めてんだからよ」
それでも今ここにあるものを。今ここにある真実だけを、信じたい。信じて、いたい。




――――何処にもない永遠を、そうやって僕らは、捜している……