視界



何時も、思っていた。バカみてーに、思っていた。
お前が見ている視界の中に濁ったモンが入るんじゃねぇって。
お前の真っ直ぐな瞳が、曇ることがないようにって。


ただのエゴかもしれない。でも、願ってた。お前の瞳に映る世界が少しでも綺麗であれば、と。



「眉間に皺、よってんぞ」
大きくて少しかさかさした手が、エリウッドの髪に掛かる。出逢った頃から自分より少し大きかった手。重ね合わせると指の先が自分より上にある手。でも今はその「少し」の部分がひどく安心するのは、どうしてだろう?
「寄ってなんかいないよ。何時も通りだよ」
本当はヘクトルの言った通りだとエリウッドは分かっていたけれど、あえて否定した。そこで「うん」と言えば彼は誰よりも自分を心配するだろう。ぶっきらぼうな口調で、けれども誰よりも本気で。
「バーカ、お前の嘘なんてすぐ見抜けるんだよ」
でもそんな小さな嘘もヘクトルには通用しない事もまた…分かっていた。この親友は誰よりも自分を分かっている。自分自身よりも分かっている。
自分が見逃している世界を。自分が見てこなかった部分を、彼の双眸は見てきたのだから。
こうやって自分が汚いモノから視界を反らす事が出来たのは、今ここにある大きな手と背中と腕が…あったからだ。
「厳しいな」
「厳しくなんかねーよ、お前がそうやって無理するから…つーか俺の前でまで無理する事ねーだろう?」
予想通りの言葉に甘えたくなる。そのままその腕の中に飛び込んで包まれたくなる。けれどもエリウッドは必死のところで堪えた。今は、堪えた。


――――甘えが赦されるのは…全てが終わってからだ。そうでなければ、自分が駄目になる。


「それでも今は無理をするよ、ヘクトル。少しの隙でも命取りになるから」
そう言って微笑うエリウッドにヘクトルは苦笑した。そうやって追い詰めて張り詰めて、必死に前に進もうとするのは、やっぱり何時もの彼だったから。
今までそうやって生きてきたのをヘクトルは誰よりも知っている。そして彼がこれからもそうやって生きてゆく事を。それが、彼が選んだ道だ。彼自身が選択した事だ。だから今自分が出来る事は、そんな彼を支えてやること。前だけを見ていられるように後を護ってやる事。
「…全くお前は…でもこんくれー許せよ……」
そう言うとヘクトルはそっとエリウッドの唇を塞いだ。触れるだけの、キス。ぬくもりを確認するだけの、キス。けれども今は、それだけでも。
「…ヘクトル……」
「ってこれ以上激しいのかましたら、俺が我慢出来なくなる」
冗談交じりに言いながらくしゃりとヘクトルはエリウッドの髪を撫でた。大きな、手。自分よりも、大きな手。少しかさかさで、小さな傷がいっぱいあって。けれども何よりも。何よりも、暖かいもの。
「そんな事言うなよ、僕だって」
少し硬めの髪も、良く通る声も、笑うとくしゃくしゃになる顔も。どれも全部好きだけど、何よりも一番にこの手が好きだった。自分を包み込んでくれるこの手が。
「―――僕だって……」
そっとエリウッドの指がヘクトルのそれに絡まる。やっぱり、少しだけヘクトルの指の方が長い。でもその長さが、今の自分の、一番の精神安定剤だから。
「我慢できなくなるよ」
大きくて広くて、そして暖かい腕。その腕の中に飛びこんで、全てのものから護られていると実感して、そして。そして眠りたいと思う。けれどもそれは、もう少し。もう少し先まで、我慢するから。だから今はこれだけ。この手のぬくもりだけを、少し。
「でもまだ駄目だから。僕はまだ君の中では眠れないから」
絡め合った指先を口許に持ってゆくと、そのままひとつ唇で触れた。細かい傷がたくさんのあるヘクトルの指先に。今は、これで我慢するから。
「――――バカ、あんま可愛い事すんじゃねーぞ」
自分を見上げてくる瞳がひどく柔らかくなって、ヘクトルはひとつ微笑った。眉間に寄っていた皺も今は何処にもなくて、子供のような穏やかな表情に戻っている。その顔は。その顔こそが、ヘクトルが一番知っているエリウッドの顔だった。



「ごめんな、ヘクトル…僕がもっと……」
願いはただひとつ。ただひとつ、だけ。
「…僕がもっと…強かったら……」
その瞳が曇らないようにと。前だけを見ていられるようにと。
「―――心がもっと…強かったならば……」
穢たないものは全て、自分が引き受けるから。だから。


「バーカ、お前はそんでいいんだよ。そんなお前だから俺はこうしてそばにいんだよ」


ヘクトルの言葉に、エリウッドは微笑う。
ひどく子供のような顔で。ひどく無邪気な顔で。それこそが。
それこそが、ヘクトルの護りたいものだった。



――――そんなエリウッドだからこそ、ヘクトルは願ったのだから。


その瞳が傷つくのを少しでも護れるようにと。
見なくて済むものならば、自分が変わりに見据えてやるんだと。


穢たないものを見るのは自分だけでいい。
脇道に進むのは自分だけでいい。



「そんな事を言うと僕は自惚れるよ。きっと君に我が侭になるよ」
「ああ、分かったよ。お前はそういう奴だ。だから俺が目、離せねーんだよな」



両手を広げわざとらしく溜め息を付いて、そしてヘクトルは笑う。
笑って、そして。そして言う――――



『そんなお前だから、惚れてんだよ』、と。