それはかさぶたのように、少しずつ塞がれてゆく。
ずっと自分から染み出ていた、消えることのなかった傷が。
少しずつ、少しずつ、塞がれてゆく。
馬鹿みたいにしあわせそうな顔を見ていたら、何に悩んでいたのか忘れちまった……
自分の上にある心地よい重みにレイヴァンは目を開いた。その瞬間に飛び込んできた褐色の髪は、ひどく太陽の匂いがした。
「―――重いんだよ、馬鹿……」
目の前にある髪をひとつくしゃりと撫でて、レイヴァンは呟いた。けれども言われた相手の口許からは途切れることのない寝息が聴こえてくるだけで。それが少しだけ悔しくて、その髪をぎゅっと引っ張ってやる。
「………」
けれども引っ張られた相手はその痛みすらも目覚めることがなく、安堵しきったようにぐっすりと眠っていた。それこそ本当にしあわせそうに。見ているこっちが…羨ましくなるほどに。
「全く、お前は…俺がお前の声…聴きたいと思ったときぐらい声、出せよ……」
普段なら絶対に言えない本音をぽつりとレイヴァンは零した。彼が望むその真っ直ぐな瞳が閉じられている今この瞬間に。
伝えたい言葉は多分たくさんあるのだろう。
けれどもそれを伝えるには自分はあまりに不器用で。
そしてお前はあまりにも真っ直ぐすぎるから。
自分でも甘えているとは分かっている。でも、何時も。
何時も俺が伝えたいと思った言葉はお前の口から零れてくる。
真っ直ぐに俺に、伝えてくるから。
ゆっくりと塞がれてゆく。傷がゆっくりと塞がれてゆく。お前の言葉が塞いでゆく。
傷は癒えることなく常に自分の内側から苛まんでいた。まるで闇が内側から広がってくるように。時が経つにつれ、忘れようとするたびに、そのたびに忍び込んでくる傷。
『ヴぁっくんじゃダメか?じゃあやっぱり先輩で』
気付かないうちに自分を支配して、それに囚われたと気付いた時にはもうどうにもならない程に自分自身を傷つけていた。けれども。
『先輩、大好きだよ』
けれどもそんな自分に向けられた屈託のない笑顔が、恥ずかしくなるくらいの真っ直ぐな気持ちが。自分自身が戸惑ってしまう程に…嬉しかった。
『大好き、めっちゃ好き。だから俺のこと好きになってください。絶対後悔させないから』
「―――そんな自信どっから出てくんだよ……」
自分よりも全然ガキで、穢い事なんて何一つ知らなくて。こうして共に戦って血を浴びているはずなのに、何時も太陽の匂いがして。そばにいるとひどく、暖かくて。
「…俺のこと…何にも知らない癖にな……」
穢い事はたくさんしてきた。酷い事もたくさんしてきた。思い出せば吐き気がするような事すらも。
全てを失った日から、血の匂いで塗れていた。闇に侵されていた。どんなに消そうとしても消えないものが、自分にはあって。どんなに手を洗っても血の匂いが消えないように、自分の内側に深くこびり付いていたのに。
「なーんにも、知らないのにな」
無邪気な子供のような笑顔。疑うことを知らない真っ直ぐな瞳。馬鹿みたいに前向きで、どんな事でも笑い飛ばせそうなほどの…。
その笑顔が自分に向けられた時、真っ直ぐな瞳が自分を見つめた時、あれだけ自分を捕らえて離さなかったものが消えた。本当にすっと、消えた。
内側から膿のようにじわじわと広がってゆく傷も、消したくても消えない記憶も。そんな事に拘っていた自分が馬鹿らしく思えるほどに。
「―――でもお前が何も知らないから、俺は救われているんだよな……」
自分の全てを知って受け入れてくれる相手はいる。自分の全てを理解し、分かっている相手はいる。けれども淋しかった。淋しいと思った。ふたりでいてもまるで鏡が目の前に置かれているようで。自分の醜い部分が剥き出しにされているようで、何処か心が落ち着けなかった。
でも今彼とともにいる事は、こうして一緒にいる事は。それはひどく自分にとって安心出来る場所になっていた。
お前が見ている『俺』を好きだと思った。
お前の瞳に映っている俺が好きだった。
そこに映る自分は何もないけれど。何も持っていないけど。
でもただしあわせそうで。ただ楽しそうで。
そこには過去も、復讐も、後悔も何もない。ただ『自分自身』がぽつりといるだけで。
普通に笑って、普通に呆れて。普通に怒って、普通に喜んで。
それは俺があの日以来失くしてしまったもの。あの日以来失ったもの。
それがお前の瞳の中に在って。お前の瞳の中にそれを見つけて。
だから好きだと、思った。お前の見ている『俺』が好きだった。
逃げているのかもしれない。それでも俺には必要なことだった。俺には必要なものだったんだ。
どこにも居場所がなくなって。どこにもいけなくて。
「なあ、お前が本当にいいって言うから」
全てを受け入れてくる相手のそばですら息が詰まって。
「過去なんて身分なんて関係ないって言うから」
苦しくて、苦しくて、どうにもならなくて。
「そんなモノ些細な事だって言うから」
そんな時に差し出された手。そんな時強引に入り込んできた心。
「そんな事よりも今いる俺が大事だって言うから」
土足で内側に入り込んできたのに、何でこんなに心地よかったのか?
「…俺が拘っていたもの全てが、今の俺に比べればどうでもいいものだって言うから……」
嬉しかったんだ。本当に馬鹿みたいに俺は嬉しかったんだ。
お前には言えなかったけれど。お前にはずっと言えないでいるけど。
俺はお前という存在にどれだけ救われているのか。
――――お前がそばにいてくれることで、俺がどんなにしあわせだと思っているか。
「…ん……」
柔らかい髪がレイヴァンの裸の胸の上で揺れる。それにそっと顔を埋めればひどく暖かい太陽の匂い。何時でも、どんな時でも、感じられる暖かい薫り。
「…ウィル……」
こうしてともに眠るようになって、夜中に目が覚めることもなくなった。身体を丸めて眠ることもなくなった。自分の悲鳴で目覚めることも、汗でびっしょりとなることも。
―――どんなに深い闇の夢を見ても、この暖かな陽だまりの薫りがある限り。
「…おやすみ……」
子供のような暖かい身体に手を廻して、レイヴァンは目を閉じた。柔らかい匂いに包まれながら、暖かい夢を見るために。
そうしてゆっくりと傷跡が塞がれてゆく。塞がれてそして。そして何時しか消えてゆくのだろう。