手のひらから零れた月



―――歪む月を見ていると、まるで。まるで自分の存在のように思えて…苦しくなる……



冷たい水に指を浸し、手のひらに掬い上げた。鏡のような水面は空に浮かぶ月を映しだし、そのまま輪郭を歪ませる。ぽたりと頬から落ちた雫が、月を歪ませた。
その歪みをしばらく眺めて、そして手のひらから水を零していった。同時に歪んだ月が、手のひらから零れてゆく。ぽたぽたと、零れてゆく。
「――――」
全ての水が手のひらからなくなっても、じんとした冷たさは消えなかった。消えずに指に残り、そこから身体中に広がってゆく。冷たさが広がってゆく。それが心まで辿り着いた時、レイヴァンは小さく身体を震わせる事を止められなかった。
「…冷たいな……」
今更ながらに呟いた言葉の乾きに苦笑を隠しきれない。ひどく乾ききった感情のない声。それはまるで少し前の自分に戻ったみたいだった。ほんの少し前の、自分。彼と出逢う前の、自分。
「―――寒いぞ、馬鹿……」
名前を呼ばずとも無意識に捜すその存在に、苦笑せずにはいられない。何時からこんな風になってしまったのか。最初はただうるさいだけの存在でしかなかったのに。なのに何時の間にか、こんなにも。こんな、にも。
「俺が寒いって言ってんだから…暖めに来いよ…ウィル……」
心の中に根付いて離れなくなっていた。嫌になるくらいの存在感が土足で心に踏み入り、そして。そして開ききった傷口を何時しかそっと塞いでくれていた。


自分と恐ろしく対極にいる存在。馬鹿みたいに明るくお気楽で、悩みなんて何もないように楽しそうにしている存在。悔しいくらいに眩しい光を、生まれながらに持っている存在。
それはあまりにも自分と違いすぎて苛つかずにはいられずにいたのに、なのに何処か別の場所で。別の場所で羨ましいと思っている自分がいた。
そう、自分は羨ましいのだ。そんな風に生きられたならばと。そんな風に生きていられたらと。
「…お前がもうちょっと要領が良くて、もう少し物事に敏感だったら……」
もしもそんなウィルだったなら自分はこんなにも癒されはしないだろう。こんなにも安らぎを見出せないだろう。どんなに煩わしく口うるさく思おうとも、それでもこんなにも自分が満たされていると思ったのは多分。
「―――俺は…自分を好きだとは思えなかった……」
多分、好きなんだ。彼の瞳に映る自分が。彼が見ている自分が。そこには自分の醜さや過去や穢れなど何もなくて。何もなくてただの。ただ『自分自身』という存在だけが映し出されているから。
けれどもそれこそが。それこそが、レイヴァンが一番願ったものだった。


復讐の為だけに生きてきた。ただ、それだけが唯一自分の自我になっていた。
それ以外に何もなくて、それ以外のものは排除していた。その為ならどんな事もした。
けれども復讐の為に前に進めば進むほど、ぽろぽろと自分が剥がれていって。
そして気付けば、空っぽになっていた。それを失った自分は。その意味をなくした自分は。
ただの空洞のような、小さな抜け殻になっていた。


地面にしゃがみ込めば、湿った草の匂いが鼻孔をくすぐった。その薫りを感じながら、レイヴァンは目を閉じる。頭上からそっと注ぐ月の光だけが彼の顔を照らし出した。
「―――ウィル……」
普段彼の前では絶対に呼ばないであろう声でその名を呼んだ。家族を失ってから、こんな風に穏やかな声で名を呼ぶ事は忘れていた。愛しい声で名を呼ぶ事を忘れていた。
「…お前は天然で、馬鹿で…煩わしい奴だけど……」
本当に少し前の自分は笑うことすら忘れていたのに。復讐のためだけに剣を振るっていた自分。目的のために何でもしてきた自分。それこそ反吐が出るほど嫌なことを。
「でもそれこそが俺には…必要だったんだ……」
金の為に身体を売ったこともあった。同僚になった傭兵達に輪わされた事もあった。思い出したくない過去をふとした瞬間に思い出して傷を抉られてゆく。けれどもそのたびにあの無防備な笑顔と、屈託のない声がその残像を打ち消してくれる。どんな事をしても消えなかった痛みが、そっと癒されてゆく。
「俺にはお前が―――必要だったんだ……」
面と向かっては言えない言葉が、今は何故かすんなりと零れた。ひんやりと冷たかった指先が心なしか暖かく感じた。ただ口にするだけでこんなにも満たされてゆくことが、それが大事だったから。
「…必要なんだ…お前が……」
目を閉じれば真っ先に浮かんでくるのはあの笑顔だった。子犬みたいに無邪気な笑顔。違う事を思い浮かべようとしても、それを押し退けて一番最初に出て来る笑顔。
「…ウィル…っ……」
その笑顔を瞼の奥に浮かべながらレイヴァンは自らの唇を指で辿った。ほんのりと湿った唇だった。そこから零れて来る息が微かに熱を帯びてくるのを…止められなかった。
「…っ…ふ……」
そのまま指を口に含み、自らの舌を絡めた。わざと音を立てながら指を濡らしてゆく。空いた方の手を上着の裾に忍ばせ、胸の突起へと伸ばしてゆく。それは既に触れる前から硬く立ち上がっていた。
「…はぁっ…ぁ…ウィ…ル……」
指の腹で転がして、ぎゅっと摘み上げた。じわりとした痛みと快感が胸の先から身体全体に広がってゆく。それを堪えようと口に咥えていた指を噛んだが、その鋭い痛みすら快楽は敏感に反応をした。
「…はっ…くふっ…んっ…はぁぁっ……」
胸を弄っていた指が下腹部へと移動し、そのままズボンの中に手を忍ばせた。既に息づき始めた自身を手のひらで包み込めば、びくびくと身体が反応を寄越す。そうなるともう、耐えきれなかった。
唇に突っ込んでいた指を離して、濡れたままのソレを胸の突起に擦りつける。唾液でべとべとになった所できつく突起を摘み上げ、同時に手のひらの自身を激しく扱く。先端からとろりとした雫が零れて来たところでわざと動きを止めて、スボンを脱ぎ捨てた。そのまま四つんばいの格好になると、腰を上げて秘所を晒す。誰も見ていないのに、誰かに見せるように。
「…あふっ…は…ぁぁ……」
濡れた指を最奥に突き入れくちゅくちゅと中を掻き乱した。もう一方の手でイケないようにと先端を指先で塞ぎながら。絡みつく内壁を押し広げ、奥へ奥へと挿入させてゆく。
「…あぁ…っ…ウィル…もっと……」
ぎこちない指が逆に新鮮だった。不器用な愛撫が愛しいと思った。乱暴にただ欲望を吐き捨てる訳でもなく、快楽を楽しむためだけの巧みな愛撫とも違う。ぎこちなく、不器用で、でも慈しむ優しい指先。
「…もっと…ああ…あああっ!!」
喉を仰け反らせて全身を一瞬硬直させて、レイヴァンは自らの手のひらに白い欲望を吐き出した。嫌になるくらいに消えない、消したくない笑顔を思い浮かべながら。



笑った顔。ガキみたいな仕草。俺が持ってないもの。
俺がとっくの昔に捨ててきたもの。それを全部お前が持っていて。
それをきっとずっと。ずっとお前は持ち続けるから。
だから俺はそれを横で見ているだけで。見つめているだけで。


――――ひどくしあわせな気持ちになれるんだ……



月が浮かぶ水面に再びレイヴァンは指を浸した。自らの欲望で汚れた手を清めるために。相変わらず水は冷たく、ひんやりとした感触をレイヴァンの指先に伝えてくる。けれども。
「…冷たいな……」
そう呟いた声はもう何処も乾いてはいなかった。ひどく満たされた声だった。ひどく暖かい声だった。
「やっぱ本物に…暖めてもらわねーとな……」
くすりとひとつ微笑って、手のひらに月を浮かべてみた。揺れて歪む水面の月を。淡く消えてゆくその月を。手のひらから零れてゆく月を。


けれどももう。もう淋しいとも、切ないとも…苦しいとも…思わなかった。ただ綺麗だと。それだけを、思った。