手のひらから零れ落ちる生命の水。ぽたりぽたりと落ちてゆく、冷たい水。
ニノは無言でその背中を見ていた。視線を逸らすことなく真っ直ぐに。真っ直ぐにその背中だけを見つめていた。
決してがっちりとしたとはいえない背中だった。強く硬いといえるものではなかった。けれどもしなやかだ。まるで獣のようなしなやかな背中。それを持っている人、だった。
「…ジャファル……」
一瞬だけ戸惑って、けれども思い切ってその名を呼んだ。不安だったから。とても不安だったから、その名を呼んだ。今彼がこうした背中を自分に向けている瞬間に、見えたものがある。それは透明な壁だった。何もかもを拒絶している壁だった。その透明な隔たりが見えたから…ニノは耐え切れずに名を呼ぶ。ふたりの距離を、確認するために。
「―――どうした?ニノ」
振り返った彼は何時もの『彼』だった。ニノの知っている優しい彼だった。生まれたばかりの子供のような瞳を見せる彼だった。それに安堵しニノはひとつため息を零す。
「ううん、何でもないの。ジャファルの顔が…見たかったから」
「…そうか……」
こんな時、どんな顔をすればいいのか分からない。前に自分に告げられた言葉をニノは思い出した。その時と同じ表情をジャファルはしていたから。
子供みたいな瞳。生まれたての子供のような純粋な瞳。それを今彼は持っている。以前の彼には何処にもなかったものだった。ただ鏡のような瞳があるだけで、それはただ『映す』以外の機能を持ち得なかった。ただ目の前の存在を映像として映し出すだけ。
でも今ジャファルの瞳には確かに意思がある。想いがある。それは。それは本当に生まれたばかりの子供が、見せるものだった。何のフィルターもない、ただ純粋にあるがままのものを映し出す瞳。そこには駆け引きも打算も計算も何もない。真っ直ぐにニノを見つめてくれる瞳。
「うん。ジャファルの顔、見ていられればしあわせ」
向き合うニノの瞳も純粋だった。子供のような透明さを持ち続けている瞳。どんな事があろうともどんなに虐げられようとも、それでもずっと。ずっとニノは信じることを止めなかった。どんな事も信じ続けた。だからこそ出来る瞳。だからこそ、持ち続けることが出来る透明さ。
ジャファルの生まれたばかりの感情を引き出したのがこのニノの瞳ならば、多分彼はきっと誰よりもしあわせなのだろう。過程がどうであろうとも今までの生き方がどんなに残酷なものだろうとも。それでも辿り着いた先が、この壊れそうなほどに無垢な瞳ならば。
ただ息をしているだけだった。ただ動いているだけだった。
今までの自分はただ命じられたままに動く人形でしかなかった。
言われた通りに人を殺す。命じられたままに人を殺す。
それが自分の全てだった。それだけが自分の生きる『意味』だった。
それ以外のものは何も持たず、何も必要としなかった。
人を殺す道具である自分に感情など必要ない。そんなものはいらない。
――――持ってしまったら何時しか耐えられなくなる。
自分のしていることに。自分のしてきたことに。自分の『生』に。
だから必要ない。だからいらない。ただ人を殺せばいい。命じられたまま動けばいい。
それだけでいい。それだけでよかった。他の事なんて考えなくていい。
『ジャファル、一緒にいよう。ね、ずっと一緒だよ』
泣きそうな顔でそうお前は告げた。今にも泣きそうな顔で。
でもあの時お前は泣かなかった。必死で堪えて、そして微笑う。
あの頃は分からなかったけど今ならば分かる。
お前が泣かなかったのは。お前が必死になって笑顔を作った理由は。
――――生命の水。生まれたばかりの泡沫の水。それをただ必死に護っていた。
色のない夢は何時しか原色の夢へと変わっていった。その時になって初めて気がついた。血の紅い色はこんなにも生々しかったのだと。それに気付いた瞬間、ジャファルは初めて『怖い』という感情を知った。
「…ニノ……」
それ以上何も言わずに微笑むニノに戸惑いながらジャファルはその顔に手を重ねる。柔らかく暖かい頬の感触が指先に伝わった。その感触を感じることで『生きている』と実感した。彼女のぬくもりを感じることがジャファルにとっての『生』への確認だった。
「ジャファルの手、暖かいね」
彼女が隣に眠るようになって色のない夢が原色の夢へと変わっていった。彼女のぬくもりを感じることで、夢に色が付いた。見ていた風景が鮮やかなものになった。
それまでの自分は目の前に起こっている出来事ですら、まるで壁を隔てた映像のようなものにしか見えなかったのに。それなのに彼女がいるだけで、それは命を持った色彩を持ったものへと変化する。見ているモノじゃなく、実感するモノへと変化する。
「へへ、暖かいね」
自分のしてきたことの罪の重さをその瞬間に初めて実感した。自分が『人殺し』だという事に初めて気付かされた。そしてその重さと罪と痛みを、初めて…受け止めた。
「ジャファルは暖かいね」
犯して来た罪は消えない。殺してしまった命はもう二度と戻ってこない。それを戦争のせいだと言って片付けられるほどの強さも残酷さもない。かと言って、その罪を放棄し狂えるほどの弱さと潔さも持ちえてはいない。
「―――お前の方がずっと暖かい」
けれども今自分に出来ることは何かと問われれば、ただひとつだけ答えられることがあった。消せない罪も背負う業も及ばない場所でただひとつだけ。
――――今この、目の前にある笑顔を自分の全てで護ること。
泣きそうな顔で、それでも必死に微笑う。小さな手のひらで必死に俺を護る。
俺よりもずっと小さいのに。俺よりもずっと華奢なのに。必死になって。
必死になって俺を護る。俺を…護ってくれる。こんな罪しかない俺を。
『ふたりでいようね。ふたりで初めようね。何もないなら、ふたりで作っていこうね』
もしもあの時お前が泣いていたら。きっと俺は今ここにいなかっただろう。
お前を泣かせることしか出来ないならそばにいられないと。一緒にいられないと。
今になって気が付いた。今になって分かった。あの時お前が微笑った意味を。
ふとした瞬間に現われる『壁』があった。それは、ジャファル自身は気付いていないものだったけれど。けれども彼の一番近くにするニノはそれを誰よりも知っていた。
その壁を取り払うことは、彼の全てから消すことは、ニノには出来ないだろう。どんなに望んでも、どんなに願っても。それこそが彼が背負ってゆくべき『罪』の隙間なのだから。
それでも。それでもと、願う。消すことが出来なくても、取り払うことが出来なくても、彼の心から少しだけ取り除いてあげられたらと。少しだけ、忘れさせてあげられたらと。ほんの少しでいいから…彼が安らげる場所を作ってあげたらと。
「…ジャファルがこうして抱きしめてくれるから…あたし暖かいんだよ……」
頬の手は何時しか背中に廻され、ニノはそっと抱きしめられていた。その腕は何処までも優しく、何処までも脆い。今にも壊れそうなものを扱うように、ジャファルはニノを抱きしめる。そこにあるのは機械のように人を殺していた手じゃない。生まれて初めて、モノに触れるような…そんな少し怯えた、けれども優しい手だった。
「…あなたがいるから…あたしは……暖かいんだよ………」
泡沫の水。手のひらの水。生まれたばかりの生命の水。
それは壊れそうで、それは零れそうで。今にも消えそうで。
でも必死で護った。必死に手のひらで掬った。
零れないようにと、落ちないようにと。必死になって護る。
――――それしかないから。それしかないけれども。
生まれたばかりの命。初めて自分の意思で歩き始めた脚。初めて自分で決めた道。
それは本当に触れただけで壊れそうな泡沫の水だった。
けれども。けれども綺麗だった。どんなものよりも綺麗だった。