…声を上げて、泣いた。君の名を、呼んだ。呼んで、叫んで、そして。そして……
柔らかい髪の匂いが、消えない。ずっと、消えない。甘くて優しくて切ないその薫りが、どうやっても消えない。
「…ニニ…ア…ン………」
血まみれの腕じゃ君を抱けないね。何時ものように君を抱きしめられないね。だって君の綺麗な髪が汚れてしまうから。君の綺麗な、髪が。
「…エリウッド…もう……」
「…ニニアン…ニニアン…ごめんね…ごめんね……」
僕が触れたら綺麗な君が穢れてしまうから、だから。だから僕はこの手のひらを。血まみれのてのひらを。
「止めろっ!!エリウッドっ!!」
こんなにも近くでヘクトルが叫んでいるのに、どうしてだろうひどく。ひどく、遠くから聴こえてきたのは…。
君が、微笑う。そっと微笑う。その笑顔をずっと見ていたいと思った。
『エリウッド様…私は何も…いりません…』
綺麗な君の笑顔を。少しだけ淋しげで、でもそっと微笑む君のその笑顔を。
『…エリウッド様がこの世界にいてくだされば…それだけで…』
きみがこうして僕の隣で微笑っていてくれたならば、他には何も望まなかったのに。
『エリウッドさまが無事で・・・良かった・・・』
違う、そんな言葉を。僕は君にそんな言葉を言わせたいんじゃない。僕は、僕は君に…君に……。
伝えたかった言葉があるのに。伝えなければいけない言葉があるのに。君の笑顔の奥に在る淋しさを消してあげられる方法がどうしても分からなくて。分からなかったから、ずっと。ずっと言えなかった最期の言葉を。君に、伝えたかったのに。
無意識のうちに自分に剣を自分の手首に当てていた。ヘクトルの手に手首を掴まれて、初めてその事に気が付いた。
「お前何やってんだっ!目を覚ませエリウッドっ!」
「…あ、僕は……」
本当に無意識だった。今自分がしていた事も、呟いた言葉も。ただ血塗れの腕じゃ君を抱けないから、だからこの手を綺麗にしようと思って。綺麗、に?
「…辛いのは分かるが…今は前に進むしかねーんだよっ……」
血塗れの腕。血塗れの手。そうこの血は。この紅い血は、僕が。僕が斬りつけた君の…。
「…僕は…僕は…うっ…うあああああっ!!!!」
どうして。どうして、どうして?誰よりも護りたいと願った君を。誰よりも大切な君を。どうして、僕は。僕は、僕は、僕は…。
「ニニアンっ!!ニニアンっ!!ニニアンっ!!!!」
君が微笑ってくれるなら。心の底から微笑ってくれるなら、きっと。きっと僕はどんな事でも出来ると思ったのに。どんな事だって、出来るんだと。
血塗れの腕で君を抱く。君の血が染み込んだこの腕で。抱きしめて、強く抱きしめて、泣いた。声が枯れるまで、君の名を呼んで。何度も何度も、その名を呼んで。
声が、聴こえる。君の、声が。
『…エリウッド様…』
何時も控えめに僕の名を呼ぶ声が。その声が。
『…エリウッド様…生きてください……』
その声が今はとても遠くて遠すぎて、苦しいよ。
――――気付けば何時もそばにあった君が、今はもう何処にもいなくて。手探りで探しても触れる事が出来なくて。君が、とても遠くて。遠すぎて、見えない。
ぬくもりのない身体は、それでも何処か暖かい気がした。こうして抱いていれば体温を分け合えるような気がした。命を、分け合えるような気がした。
「…ヘクトル…僕は……」
「―――エリウッド…それでもお前は前に進むんだ……」
ヘクトルの瞳に映る自分の顔が、ひどく滑稽で哀れに見えた。それは愛する者を自分の手で殺めた愚かな一人の男のありのままの姿だった。
「…俺はお前を…信じているから……」
そうだ、僕は愚かで滑稽でどうしようもない男だ。それでも。それでも、僕らにしか出来ない事があって、しなければならない事がある。こんな僕でも成さねばならない事がある。
「…ありがとう…ヘクトル…だけど今だけは…許して欲しい……」
「―――ああ、分かっている…俺は…分かっているから……」
けれども今は。今はこのむせかえる血の匂いの中で、遠ざかっていく君のぬくもりを感じさせて欲しい。今、だけは。
好きな、だけじゃ、どうにもできない。どうにも、ならない。それでも。それ、でも。
「…ニニアン…僕は…君が好きだ…君だけが…好きなんだ……」
伝えなければいけなかった。ちゃんと言葉にして、伝えなければならなかった。どうにもならなくても、どうにもできなくても。それでも。
―――――好き、だけじゃ、なにもできなくても。
お題提供サイト様 確かに恋だった