振り返る事すら忘れてしまう程に、ただひたすら前に進んできた。もしも迷いや戸惑いが心の中に生まれてしまったら、私はこうして進んでゆく事が出来なくなってしまうから。だからずっと。ずっと前だけを、見つめてきた。
――――ふと立ち止まった瞬間に貴方がそこにいた。そっと私の後ろに立っていた。
言葉なんてもしかしたらふたりには必要ないのかもしれない。けれども人が想いを伝える手段が言葉しかないのならば、私はこうして名前を呼ぶ。貴方の名前を、呼ぶ。
「…ケント…やっと……」
その先の言葉を告げようとして、けれどもその声は寸での所で止まった。何故だろう、今は。今は声にして言葉にしなくても伝わるような気がするのは。
「―――ええ、やっと……」
やっとここまで辿り着いたね、と。声にしなくてもふたりの想いは重なった。言葉にしなくてもふたりの気持ちは伝わった。だから。
「うん、行こう。これが最期だから」
ふわりと吹く風が髪を揺らす。それはひどく心地よいものだった。懐かしい匂いのする場所からは随分と遠いところまで来てしまった。ずっと遠い場所まで。けれどもそれでもこうして吹く風は懐かしいサカ草原の匂いを運んでくれているような気がした。
「負けない。私達は絶対に負けない、行こう―――――おじいさまの所に」
「ええ、キアラン城に居るラングレンを倒せば全てが終わります。行きましょう、リンディス様」
負ければ全てが終わりだ。何もかもが終わってしまう。そんな不安は常に足許にあって巨大な漆黒の穴を作っている。足が竦むほどの巨大な闇が。けれどもそれ以上に自分の背中を押してくれる強い力がある。支えてくれる力がある。共に闘ってきた仲間がいて、そして。そして何よりも。
―――――振り返らなくても伝わるものがある。伝えてくれるものがある。私が迷わず怯えず前だけを見つめられるように、支えてくれるその腕がある。
怖くない。怖くないんだ。未来はこの手のひらに在る。この手の中に在る。皆がくれた強い力が、貴方が与えてくれた安心感が。だから、もう怖くはない。
「――――私たちの最後の試練よ。みんな!どうか私に力を!!」
剣を握る手にひとつ力を込めた。全ての想いを込めて、全ての願いを込めて、この剣に力を込めた。
風がひとつ髪を揺らす。それは何処かあの時の風に似ている。初めて気が付いたあの時の風に。背中に在る貴方の存在に気付いた瞬間に吹いた風の匂いに。
「――――ケント」
瞼を閉じた瞬間に浮かんだのはキアラン城に攻め入るあの時の場面だった。あの瞬間こそが最期だと思っていたのに、思い返せばあの場面こそが始まりだった。長い、長い、戦いの。けれどもそれすらも今はひどく遠い場所にあるように思える。
「何ですか?リン」
ネルガルを倒し本当の意味で全てが終わって初めて、貴方はリンディスではなくリンと呼んでくれるようになった。主従としての立場をどんなになっても崩さなかった貴方にとってのそれはけじめだった。
「私の我が儘を聴いてくれてありがとう。そしてごめんなさい」
私がキアランの当主として生きる道ではなく、こうしてサカの民として生きる道を選んだ事。貴方が望んだ主君にはなれなかった事。騎士の誓いを立ててくれた貴方の想いよりも、私は騎士としてではなく『貴方自身』を望んでしまった事。女として生きてしまった事。
「どうして貴女が謝るのですか?私にとっての望みは何よりもリン…貴女の幸せです」
「それでもどうしても言いたかったの。貴方は立派な騎士なのに、それなのに私は騎士である貴方よりも…ただのケントである貴方が欲しかった」
浮かんでくる場面のひとつひとつが、私を主君として護り続けてくれた貴方の姿なのに。それなのに私はそんな貴方よりもこの指を絡めてくれる貴方自身を望んでしまった。
「…それは私も同じです…誰よりも貴女の騎士になりたいと願いながらも…主君の筈の貴女を愛してしまった……」
「…ケント……」
「…許されない想いだと思い必死に閉じ込めてきたはずなのに…貴女に見抜かれてしまった…」
「だってそれは私も同じ気持ちだったからだわ」
「…リン……」
見つめた瞳の先に貴方がいて、そして。その瞳に映った私の顔がただの恋する女の顔だったから。本当にただの恋をしている少女の顔だったから。
「…気付かれていると思った…見破られていると思った…貴方に対する想いを……」
もうこの手は剣を握る事はない。けれどもあの時に剣に込めた想いは今でも手のひらに残っている。あの時の強い想いがずっと残っている。そしてその想いをこうして分け合える相手がいる。こうして手のひらを重ねて、指先を絡めて、伝わる想いがある。
「おじいさまを助けにキアラン城に乗り込む時、不思議と分かったの。貴方の言葉が分かったの。声にしなくても伝わったの」
あの瞬間に、気が付いた。気が付く事が出来た。私が迷わずにいられたのは、こうして背後にあった貴方の存在があったからだと。怯えも不安もこの腕があったから乗り越えられたのだと。
「奇遇ですね…私もあの時分かりました。貴女が言おうとした言葉が」
絡めあう指先からそっと伝わるぬくもりは、泣きたくなるほど優しく暖かい。この暖かさが在る限り私はきっと何があっても怖くない。怖くは、ない。
「じゃあ、今も分かる?」
怖くない、貴方がいるから。貴方とともに在るから。共に生きてゆけるから。命の最期の日まで、一緒にいられるから。それはどんな立派な剣よりもどんな凄い武器よりも、強い、強い、ものなんだ。
「ええ、分かります」
しあわせが溢れて、零れてくる。そっと零れてくる。それが少しでもいい、この大地に注がれてほしい。ほんの少しでいいから、この暖かな気持ちを全ての人と分け合えたらいい。
―――――やっとここまで、辿り着いたね……
長かったのか短かったのか、それはきっと命の終わる瞬間まで分からないけれど。それでも辿り着けた。ふたりの場所へと辿り着けた。それは夢見てきた未来よりも、もっともっと優しくて暖かいもの。泣きたくなるくらい、しあわせで溢れてくるもの。
繋がっている指先が、暖かいの。とても、とても、暖かくて優しいの。
好きだという気持ちだけで、生きてゆけることの幸福に勝るものはない。愛しているという想いだけで、命を紡いでゆけることの幸せに勝るものはない。富よりも地位よりも名誉よりも何よりも大切なもの、それがこうして結ばれた手のひらの中にある。この手の中に、在る。ふたりのてのひらに。
見つめあって、微笑いあう。微笑いあって、キスをする。何度も、何度も、キスをする。
溢れて、零れて、広がってゆく。
「ケント、好き。大好き」
想いが、愛が、しあわせが。
「私もです、リン。私も」
広がって、そして。そして少しでも。
―――――やさしい気持ちが、そっと大地に零れてくれてくれたならば……
描いていた未来よりも、ずっと。ずっと世界は優しくて暖かかった。夢よりも先にある場所は、泣きたくなるほどのやさしい場所だった。