笑顔の場所



伸ばした指先でその頬に触れる。冷たい頬に、触れる。その瞬間指先に小さなぬくもりが灯ったから。そっと灯ったから。だから泣きたくなった。


「――――やっと見つけた、ジャファル……」


口許に笑みの形を作って笑顔になろうとしたけれど、懸命に笑おうとしたけれど、それは叶わなかった。どんなに口許が笑みの形を作っても瞳から零れる雫を止める事が出来なかった。
「…ジャファル…やっと……」
ぽたり、ぽたりと、暖かいものが頬を滑り地上に零れた。そこから広がる小さな染みが冷たい世界の唯一のぬくもりだとでも言うように。ただひとつの、暖かさだと言うように。
「…やっと、逢えたね…もうあたし離れないよ……」
しあわせはこの手のひらに在った。繋がった指先に在った。ささやかで小さくて、けれども何よりも暖かいぬくもりが確かにここに在った。ふたりの指先にきつく結ばれていた。
「…もう絶対に…離れないんだからっ!」
ただ生きたかっただけで。ただ生きていきたかっただけで。平凡で良かった、特別なものなんて何もいらなかった。ただあたしと貴方と子供たちと四人『家族』になって生きていきたかった。ただそれだけだったのに。

――――なのに貴方の手にこびり付いた血は決して消える事はなくて……

代われるものならば代わりたかった。それが出来ないのならば同じものを共有したかった。痛みも苦しみも罪も贖罪も何もかもを分け合いたかった。けれどもそれを貴方は決して許さなかった。
『―――お前が穢れたら…俺は俺自身を決して許せない』
一番最期の場所にあたしを踏み入れさせない事で、貴方はあたしという存在を護っていてくれた。けれども、あたしは行きたかった。貴方の場所まで辿り着きたかった。
「…ジャファル…あたしを叱って…子供たちよりも貴方を選んだあたしを……」
貴方の望む通り母親として生きられなかったあたしを。貴方が必死になって護ったものを自らが壊したあたしを。最期の最期になっても貴方をひとりぼっちにしたくなかったあたしを。
「…馬鹿だって…言って…ねぇ…馬鹿だって…お願いだから……」
あたしは馬鹿だから何が正しくて何が間違っているのかが分からない。それでもひとつだけ分かっている事がある。それは、あたしはどんなになっても貴方のそばにいるという事。どんな事があっても貴方と一緒にいるということ。


指を絡めてした約束はただひとつ。ひとつだけだった。
『一緒にいるね、ずっと』
それだけで充分だったから。それ以外に何もいらなかったから。
『あたしはずっと、ジャファルのそばにいる』
なにもいらないよ。ふたりでいられるならば、あたしはなにもいらない。
『どんなになっても、あたしは貴方のそばにいる』
だから、ジャファル。この指先を離さないで。どんなになっても離さないで。


散らばった紅い華はもう地面にこびり付いてどす黒く変化していた。生暖かい感触はなく、生臭い匂いすらも地面と同化し固まっていた。それでも少しでもほんのわずかでも命のかけらが何処かに残っていないかと手探りで地面を冷たくなった身体を捜した。もう何処にもいない『貴方』の破片を捜した。
「…ジャファル…手、冷たいね…あたし…暖めてあげる……」
傷だらけの大きな手は冷たくてひんやりとしていた。けれども同じだった。何も違わない。冷たい事以外は…何一つ変わる事のない愛しい手のひらだった。
「…暖めて…あげるね……」
指を絡めて、ぬくもりを分け合う。今までずっとそうしてきた。淋しくなった時、哀しくなった時、嬉しかった時、笑顔を分け合った時、こうして指を繋いで手のひらにしあわせを溢れさせた。そうやって生きてきた。そうやって生きるという意味を知った。生きているという事を、ふたりで分かり合った。

――――なのに指先は冷たくて。てのひらのぬくもりは何処にもなくて。

それでも必死になって捜した。何処にもないぬくもりを捜した。こうして指先を絡めれば体温を分け合えるような気がして、懸命に指先を結んだ。きつく、絡めた。あの頃のように指を絡めた。あの頃には戻れないと分かっていても、貴方が何処にもいないと理解していても、それでもきつく。きつく、結び合わせた。


何時も言っていたね、貴方はあたしに言っていてくれた。あたしを護るって、どんなになってもあたしを護るって。けれどもジャファル、あたしも。あたしも貴方を護りたかったんだよ。貴方が思っている以上に、ずっとあたしは貴方が大事だったんだよ。
どうしてあたしの手はこんなにも小さいのだろう?どうしてあたしの腕はこんなにも頼りないのだろう?もしも、もっとあたしの手が大きかったならば貴方を包み込む事が出来るのに。もしも、もっとあたしの腕が広かったならば貴方の全部を抱きしめる事が出来るのに。

包み込みたかった。貴方の傷も貴方の痛みも、何もかもをあたしが全部。全部抱きしめたかった。

居場所なんてほんの少しで良かったのに。誰にも気づかれずそっと。そっと居られたらそれだけで良かったのに。それすらも許されずに、こんな結末しかあたしたちにはなくて。それが答えというのならばどうしてあたしたちは出逢ったのだろう?どうして恋をしたのだろう?どうして愛したのだろう?どうして…あたしたちは……
「…ううん、本当は…本当は分かっているよ…あたしたちは『生きた』んだよね…ふたりで命の意味を…知ったんだよね……」
笑って泣いて、怒って喜んで。ふたりでたくさんの感情を溢れさせたね。ふたりでたくさんの気持ちを知ったね。そうやってふたりで『生きて』きたんだ。

――――あたしたちは、生きたんだ。誰の為ためでもなく自分自身の為に。

何時しか頭上から白いものが零れ落ちてくる。細かい雪が大地にこびり付いた紅い痕を覆い隠し、何時しかちっぽけなふたりを隠してゆく。誰にも見えないように、誰にも見つからないように、ふたりを隠してゆく。ふたりだけの場所へと、誰も知らない場所へと。



手が、冷たいから。暖めてあげるね。あたしが、暖めてあげる。そうしたら淋しくないよね。そうしたらひとりじゃないよね。あたしたちずっと一緒だよね。



繋がった指先にそっとぬくもりが灯る。それは哀しい程に優しく暖かいもの、だった。