瓦礫の花



少女は願った。そのひとのしあわせを。
少女は祈った。そのひとのぬくもりを。


ふたりはずっと。ずっと孤独で、そしてとても小さかったから。


何時かふたりで、しあわせになろうと。何時かふたりで、家族を作ろうと。何も持っていないふたりだから。何もなかったふたりだから。だから始められるんだと。ふたりでなら、最初から始められるんだと。その手を取り、指を絡めて、そして。そしてふたりで『未来』を作っていけるんだと。



何もいらない。いらないよ。ここにジャファルがいてくれれば、あたし。あたしなーんにも欲しくない。



歪む視界の中で、真っ赤な世界の中で、それでも必死になって捜した。ここにいないと分かっているのに、必死になってその姿を捜した。
「…ニノ……」
この場所に彼女がいる訳がない。いや居てはならない。彼女を護るために、暖かいその場所から逃げてきたのだから。暖かく優しい、自分にとっての唯一の居場所から。
「…ニノ…何処だ…何処にいる……」
それでも。それでも自分は捜してしまう。何処にもいない彼女の笑顔を。ここにはない彼女のぬくもりを。血でべとべとになった手を必死で伸ばして、そのまま宙に浮かべて。何度も何度も手を振り、ありえない彼女の肌を捜す。彼女を、捜す。
「…何処にいる…ニノ…ニノっ…!……」
世界がゆっくりと歪んでゆく。瞳に堪った血のせいで視界は一面紅い色だった。ただその紅すらもゆっくりと滲み霞んでゆく。ぼやけて輪郭がなくなって、そして漆黒の闇がそっと。そっと自分を包み込んでゆく。それを止める事はもうジャファルには出来なかった。


ずっと闇だった。お前に出逢うまでずっと俺は闇の中にいた。
『あたしね、ずっとジャファルのそばにいるよ』
生きるという意味すら知らず、ただ呼吸しているだけのモノ。
『ずっといるから。だからね』
ただの人形。ネルガルに作られた殺戮兵器。だから。
『だからね、いっぱい。いっぱい笑おうね』
だから知らなかった。こんなにも暖かいものを。こんなにも。
『笑って、怒って、泣いて…そうやってふたりで生きていこうね』
こんなにも光は眩しくて、そして優しいものだと知らなかった。


お前に逢って初めて俺は眠れた。暖かい光の中で、身体を丸めて眠ることが出来た。



神様、このひとをこれ以上傷つけないでください。このひとを苦しめないでください。
いっぱい人を殺していっぱい悪いことをしてきたけれど。けれども今。
今一生懸命に自分の脚で歩き始めたこのひとを。初めて『人間』として生きはじめたこのひとを。
どうかもうこれ以上傷つけないでください。苦しめないでください。


あたしは何も持っていないけど。あたしは馬鹿で、そして何も出来ないけど。
でもそばにいる事は出来るから。一緒に生きることは出来るから。だからお願いです。
神様苦しみも哀しみも全部。全部あたしが貰うから、このひとをしあわせにしてください。


何時かこんな日が来る事は分かっていた。けれども永遠に来なければとも願っていた。永遠に来なければと。
「…ルゥ…レイ……」
ベッドに眠る小さな二つの命にそっと触れて、そしてニノはひとつ微笑った。その顔はまだ何処かあどけなさすら残っていたが、瞳は間違えなく母親のものだった。自らの子を慈しむ、母親の瞳だった。
「――――ごめんね…あたしは護れなかった……」
口許は微笑っているのに声が自然と強張ってくるのが分かる。喉の奥につかえて、そして震えてくるのが。それでもニノは言葉を続けた。必死になって続けた。
「…あんたたちの父さんを…護れなかったよ……」
目覚めた瞬間、何処にもいなかった。何時もある優しい腕が何処にもなくなっていた。隣にあったぬくもりが突然消滅した。
「…ごめんね、護れなかった…ごめんね…ごめんね……」
何時かこんな日が来るだろうと心の中では分かっていた。覚悟すらもしていた筈なのに。なのに突然訪れた現実は容赦なくニノの心をずたずたに引き裂いてゆく。ぼろぼろに、引き千切ってゆく。
壊れそうだった。壊れて崩れて、何もかもを崩壊して。それでもこうしてぎりぎりの場所で耐えられるのはただひとつ。ただひとつ…この目の前にある小さな二つの命の為。
「…ごめんねぇ…あたしは…あんたたちの父さんを…護れなかったよぉ……」
何もなかった。何も持っていなかった。ふたりは本当に何もなくて、だからひとつずつ作り上げた。ひとつずつ作り上げた。ふたりで最初からひとつひとつ。そしてふたりで作った『家族』。ふたりで作り上げたこの小さな命。それだけが今。今ニノに残されたものだから。
だからこの命の前で崩れることは出来ない。無様な姿を見せることは出来ない。ふたりの作り上げたものを、否定することは出来ない。


触れた指先。重ねあった指先。触れた、ぬくもり。
『お前がいてくれれば、俺は笑える』
少しずつ覚えた表情。少しずつ芽生えた感情。
『笑うことも…泣くことも出来る…俺は……』
それを見てきた。ずっと、見てきた。あたしは見てきた。
『俺は…生きているんだって…感じられる……』
初めて触れたのも、初めて笑顔を見たのも。全部。
『…俺は…生きているんだ……』
全部あたしが最初だった。それが何よりも嬉しかった。


可笑しいね、あたしたち。あたしたちなんにも持ってなかったのに。何にもなかったのに、今はこんなにも溢れているよ。暖かく優しいもので、いっぱい。



少女は祈った。少女は願った。想いを告げられた日、ただひたすらに。
そのひとのしあわせだけを、そのひとの喜びだけを。
それは何よりも純粋で、そして何よりも尊く。何よりも切ないものだった。


深い闇に包まれながら、それでも最期まで捜し続けた。ただひとつの光を。ただひとつの花を。真っ白な花を。真っ白な―――彼女を……。
「…愛して…いる…お前だけ…ニノ……」
何時しか頭上から降り出した雨が、ゆっくりと血を洗い流してゆく。けれどももう。もうジャファルは立ち上がることは出来なかった。流れ溢れる血が、彼の命を容赦なく削ってゆく。
「…愛している…ニノ…ニノ……」
それでも最期の力を振り絞って瞼を開いた。いるはずのない幻を捜して視線をさ迷わせて。ここにはいない面影を追って、そして。
「…ニ…ノ……」
―――そして、見つけた。小さな花を。瓦礫に咲く、小さな白い花を。
「…ありがとう……」
その花は『ニノ』だった。ジャファルにとっては、ただひとりの彼女だった。小さな小さな花は彼にとってはただひとりの愛する少女として映し出されている。例えそれが幻影であろうとも。それが例え幻であろうとも。それでもジャファルにとっては『ニノ』だったから。だから。



「…ありがとう…生まれてきて…くれて…ありがとう……」



俺と出逢わなければ。俺以外の奴と結ばれていたなら、きっと。きっともっとしあわせになれたはずだ。もっと違う人生を送れたはずだ。それでも選んでくれた。それでもこの手を取ってくれた。それでもそばに…いてくれた。
ありがとう。ありがとう、ありがとう。お前という命をこの世に存在させてくれて。お前というぬくもりを俺に与えてくれて。お前という光が…俺を包み込んでくれて……。


ニノ、俺はずっとお前を護ってゆきたかったけど。ずっとこの手でお前を護ってゆきたかったけれど。でもやっぱり血塗れの腕じゃ駄目だったな。俺いっぱい人を殺してきたから。だからお前みたいな綺麗な身体にこの腕じゃ…この腕じゃ、護りきれないよな。
これは俺の報いだから。俺が今までしてきたことの報いだから。だから俺がいなくなっても哀しまないで欲しい。哀しまないでくれ。俺はお前の泣き顔に弱いんだ。


…だからずっと。ずっと微笑っていてくれ…俺…お前の笑顔…好き…だから……


お前が屈託なく微笑うから。
『ジャファルっ!』
無邪気な声で俺を呼ぶから。
『あのね、ジャファル、あたしね』
だから俺。俺、忘れてた。自分が。
『あたしね…あのね……』
自分がただのひとごろしだということを。


俺はひとごろしだ。そんなやつがお前を護ろうなんて、馬鹿げた話だよな。


それでも愛していたんだ。それでも護りたかったんだ。
自分の全てで。俺の全てで、お前を。お前だけを。
お前だけが教えてくれたから。生きることの意味を。
お前だけが俺に与えてくれたから。生きる事の喜びを。
だから俺はどんなことをしても、お前を護ってやりたかった。



『…あたしね…お母さんに…なるの…ジャファルに家族…作ってあげられるの……』



ありがとう、こんな俺を好きになってくれて。
ありがとう、こんな俺を愛してくれて。



…ありがとう…ニノ……だから…俺がなくても…しあわせに…なって…く……れ…………




窓の外から聴こえてくる雨の音が激しくなる。ざあざあと。ざあざあと。その音にかき消されるように、小さな嗚咽を漏らしたニノを誰が止める事が出来るだろうか。
「…ジャファル……ジャファル……」
確信などない。でも分かっていた。分かっている、もう二度と巡り合えないだろうということは。もう二度と逢えないということは。それでも。それ、でも。
「…ジャファル……」
自分は捜しにゆくのだろう。彼を追って、何処までも。そうする事が、彼を今自分の心で感じることが出来る唯一の方法だから。


貴方を捜している間は怖くない。怖くない、その時は貴方の事だけを考えていられるから。



地上を打ちつける激しい雨が小さな花びらを散らせていった。瓦礫に咲いた、ただひとつの小さな花を散らせていった。