不意にぶつかった、その指のぬくもりと感触が、ずっとずっと消えなくて。
「はぁ〜」
「くす、これで五回目の溜め息よ、リン」
フロリーナに指摘されて、リンは少しだけ不機嫌になった。かと言ってこの親友を責めるのはお門違いなので、諦めてもう一度大きな溜め息を付いた。そんなリンに対してフロリーナは心配そうに自分を見つめてくる。そんな所は昔からずっと変わらないのがリンにはひどく嬉しかった。
自分が公女であろうともずっと。ずっと親友でいてくれる彼女が。
「本当にどうしたの?何か心配な事でもあるの?」
ふわふわの柔らかい髪と華奢で小柄な身体。同性の自分から見ても『可愛い』と自信を持って言える存在。それは、昔は自分にとってひどく自慢だった事なのに、今は少しだけ。少しだけ事情が違ってくる。違うというよりも自分自身の、気持ちの変化のせいだ。そう、気持の変化。
「フロリーナはいいなぁ、可愛くて」
「…リ、リン…何を言って……」
可愛いといわれて真っ赤になる親友。それが今はひどく。ひどく羨ましくなっていた。今までこんな感情を持った事などなかったのに。けれども今はっきりと自分は嫉妬している。目の前のふわふわの可愛い存在に。
「本当の事だもの。フロリーナなら男の子は皆護ってあげたいって思うよね」
「…わ、私は…リンが護ってくれるのが…いい……」
「ってそんな事言ったらフロリーナを護りたいって思っている男の子達が可哀想でしょう?」
「…も、…もう…リンったら……」
からかわれて真っ赤になる所も、ひどく羨ましい。こんな風に自分はどうやっても出来はしない。男に護られるくらいならば、自分で自分を護りたいと思う。誰かに頼らずとも独りで生きてゆける。今までそうやってきた。そしてこれからもそうやってゆくつもりだった。それなのに。
「…いいなあ、フロリーナは……」
こんな風に思うのは本当に自分らしくないと思う。けれども、自分だって女だから。だから心の何処かでそう思ってしまうのも止められないでいた。
ふとした瞬間に触れた手が、ひどく大きくて。大きくて、そして優しかったから。
外に出た瞬間つんとした冷たい空気が身体を覆った。気付けばもう冬はそこまで来ている。今ごろ草原は真っ赤な葉で覆われている事だろう。
「――――帰りたいな……」
誰に言う訳でもなくリンはぽつりと呟いた。祖父がいる以上ここにいる事が自分の望みでもあったが、それでも時々無性に望んでしまう。あの草原に帰りたいと。草の匂いと大地のぬくもりを感じ、くたくたになるまで馬で駆け回りたいと。あの風を浴びて、何処までも自由に。
けれどもそれ以上を望む事は今のリンには出来ない。唯一の肉親となった祖父がここにいる以上、自分は公女として生きてゆく事を決めたのだから。
その選択を後悔した事は無かった。その選択を間違っているとも思わなかった。ただ。ただ時々無性に、帰りたいと思う瞬間があって。そして最近、そう思う時に必ず付随する気持ちがあって。その気持ちが『帰りたい』という思いを、少しずつ強くしているのを自覚していた。そう、少しずつ。
「………」
視線を巡らせそして止めた。何時からか自分は無意識にこの背中を捜すようになっていた。大きくて広くて、そして何処か不器用な背中を。
それが何時しか『当然』の事になっていた。
戦う自分を護ってくれる大きな背中が。その背中が。
自分の盾になり、どんな時もそばにいてくれて。
何があっても自分を一番に優先してくれるひと。
――――それが例え主君の為であろうと、そんな風に護られる事を今まで知らなかったから。
「どうかされたのですか?リンディス様」
柔らかい杏色の髪がふわりと揺れて、ケントはリンに振り返った。リンが言葉を掛けずとも、何も言わずとも、ケントはリンの視線に気付いて振り返る。
「な、なんでもないわ。ちょっと散歩していたのよ。ケントは?」
それが嬉しいといったらケントはどんな顔をするだろうか?顔色ひとつ変えずに何時もの真面目な態度で『リンディス様を護るのが私の役目ですから』と言うのだろうか?それとも。それとも別の顔を、自分にくれるのだろうか?
聴いてみたかったけど、聴けなかった。聴いてしまって変に思われたら嫌だったから。本来の自分ならこんな事簡単に言えるのに、どうしても。どうしてもケントの前では言えない自分がいる。
「私は見回りをしていました。最近オスティアで不穏な動きがあると聞いていますので、キアランも充分に注意せねばと」
「何事も無ければいいのにね。このまま平穏に私はおじい様と暮らしたいわ」
「ええ、それは私達皆の願いでもあります」
リンがキアランに来てもうすぐ一年になろうとしていた。部族を、両親を、亡くして独りで生きてきたリンに突然現れた二人の騎士。そして告げられた事実。自分がこのキアラン公の孫娘であるという事。
それからは怒涛の日々だった。ラングレンの手によって反乱者にされ、そのラングレンによって祖父を殺されそうになり、戦い続けた日々。けれども今は、それすらも何故かひどく遠い日のように感じる。ひどく遠い記憶のように。
「リンディス様がしあわせになられる為ならば、私はどんな事でもするつもりですから」
「…ありがとう…ケント……」
「いいえ、それが騎士として主君に仕える私の勤めですから」
どうしたらこの距離が埋められるのだろうか。どうしたらこの距離を縮められるだろうか?それは自分が『主君』で彼が『騎士』である限り、不可能な事なのだろうか。
「…ケント……」
嬉しいと思う。欲しいと思った訳じゃない。その言葉を願った事なんてなかった。でも他の誰でもない彼から与えられるのは何よりも嬉しい。
けれどもその反面、それが。それが『彼自身』の言葉ではなく、主君に対する部下の言葉である事が。それが何よりも、苦しい。
――――誰かに護ってもらいたいと思った事はなかった。けれども貴方からはその言葉が欲しい。
不意に手を伸ばした瞬間、そっと。
「…あ、……」
そっと指先が、触れた。微かにその手が、触れた。
「…リ、リンディス様、すっすみませんっ!…」
その瞬間微かに頬が赤くなって貴方の手が離れる。
「……いや……」
指に暖かなぬくもりを残したまま、離れてゆく。
「…リンディス様?……」
あたたかくて、おおきなてが、はなれてゆく。
「―――こんなに近くにいるのに…遠いのは…いや……」
我が侭だろうか。このぬくもりを、この大きな手を、欲しいと願うのは。我が侭なんだろうか、その温度を感じたいと思うのは。
「…リ、リンディス様……」
離れたケントの手をリンはそのまま握り締めた。その行動にうろたえケントが一歩後ずさりをすると、哀しげな瞳でリンは見上げてきた。ひどく哀しげな瞳で。
「どうしてそうやってケントは距離を置こうとするの?私がこうやって近付けば、その分だけ貴方は離れてゆく」
近付きたいのに。もっと、そばにいきたいのに。もっと近くにいって、同じ温度を感じたいのに。
「私が主君だから?だから対等にはなれないの?同じ場所には立てないの?」
喉に痞えていた言葉が出た瞬間、リンは気が付いた。本当に今、気が付いた。自分がフロリーナを羨ましいと思ったのも。自分が無性に草原に帰りたいと思ったもの。それは全て。
「そ、そんな事はっ!」
「だったらちゃんと私を見て。リンディスじゃない…リンを見てっ!」
フロリーナを羨ましいと思ったのは、無条件に護りたいと思える存在だから。護りたいと思われる気持ちは『フロリーナ自身』から来るものだから。それは決して義務感でも使命感でもない個人の感情だから。それが羨ましかった。そんな風に自分も思われたかった―――目の前の相手に。
「…リンディス様……」
草原に帰りたいと思ったのは、こんな気持ちを消してしまいたかったから。こんな思いに支配されている自分から逃げ出したかったから。こんな事を考えてしまう、自分の嫌な部分を。
今はおじい様の事だけを考えなければならないのに。その為に戻ってきたのに。そして目の前の彼は何よりも一番自分を優先してくれるのに。何よりも自分を護っていてくれるのに。なのに。なのにそれ以上を望んで、期待してしまう自分に。
「…それともケントは…リンディスじゃない私は…必要ない?」
「そんな事はありませんっ!私にとって…私にとってリンディス様でも…『リン』であろうとも、大切な方には何も変わりません」
「…だったら……」
「…だったらこの手…離さないで……」
それ以上何も言えずに俯いてしまったリンを、ケントはひどく真剣でな瞳で見つめた。痛いほど苦しく、そして何よりも愛しげな瞳で。けれども俯いてしまっているリンにはそれを確認する事が出来なかった。だから。
「…それが貴方の望みならば…私はこの手を離しません……」
だからケントがこの言葉よりももっと。もっと告げたかった言葉を必死で飲み込んだのを…気付く事が出来なかった。
――――貴方が望まなくても…私はこの手を離すことなど出来ないのに……
その言葉を迷わず言えたならば、こんなに苦しくはない。
この言葉を真っ直ぐに告げる事の出来る立場ならば何も苦しくない。
それでも自分はただの一介の騎士で、主君を護る事以外何も出来なかった。それ以上の事を自分が出来る立場ではない。それでも。それでもそばにいる事が許されるのならば。
それ以上を望んではいけない。それ以上を願ってはいけない。
少しだけ近付いた距離。少しずつ縮んでゆく距離。
「…離さないで…今は……」
少しずつ触れ合ってゆくぬくもり。近付いてゆく温度。
「…今だけで、いいから……」
それを止めることはどちらにも出来なかった。
――――少しずつすれ違い、そして少しずつ重なってゆく温度を…