花が咲いたら



あの大地に花が咲いたなら、一緒に見に行こう。
どこまでも蒼い空を飛んであの小さな花を見に行こう。


――――そうやって指を絡めてした約束は、今はどこにあるのだろうか?


本当は気付いていたけれど、それでも気付かない振りをした。何もかもを分かっていたけれど、それでも知らない振りをした。それ以外の選択肢を思いつけるほどに、私は賢くも大人でもなかったから。だから気付かない振りをして、そして微笑った。
「連れて行ってくれるのですか?」
わざと嬉しそうに微笑った。子供のような無邪気な笑顔を向けた。普段あまり笑わないんだなと言われたから、だから今は精一杯笑った。
「ああ、春になったら見に行こう」
肩より長めの翠色の髪が風にふわりと靡いた。ふんわり、と。それをずっと見ていたいと思いながらもその反面、心のどこかで思っている。
―――風が何時か貴方をさらっていってしまうのだろうと。この柔らかい風が貴方を空へと飛ばしてゆくのだろうと。それでも。それ、でも。
「…連れて行って、くださいね…私ずっと待っていますから……」
それでも今はこれしかないから。私が縋れるものがこれしかないから。私が唯一貴方と結べるものは…これしかないから。
「約束ですよ、ヒースさん」
そっと指を差し出した。微笑いながら、差し出した。一生懸命に笑顔を作って、貴方にとっての『私』が何時も笑顔でいられるようにと。貴方にとっての私の記憶の全てが笑顔で埋められるようにと。精一杯、微笑った。けれども。
「…プリシラ…さん……っ」
けれども駄目だった。ちゃんと顔は笑えたのに、指が。差し出した指が、震えて。どんなに真っ直ぐに伸ばそうとしても、小刻みに震えてしまうのを止められなくて。
「君に見せたい。君だけに、見せたい。あの場所からしか見えない…小さな花を……」
私の指先を包み込む大きな手。傷だらけの手。節くれだって、厚い大きな手。そんな手が不器用にけれども優しく私の手を包み込むこの瞬間が何よりも好きだった。何よりも、大好きだった。
「俺しか知らないあの場所に―――何時か必ず君を……」
「だったら約束してください。指きり、してください」
「ああ、プリシラさん」
そっと指が絡まって、たったひとつの約束をした。この約束だけで生きてゆこう。私はこれからを生きてゆこう。貴方の約束だけを信じて、生きてゆこう。


『秘密の場所があるんだ。俺の故郷に、俺しか知らない場所が。そこに春先に必ず咲く小さな花があるんだ。空を飛んでゆかないと見えない場所に。そこに何時か、君を連れて行きたいな』


分かっていた。この指を離したらそれで終わりだと。
この指が離れた瞬間に、さよならだと。さよならだって。
それでも気付かない振りをするの。知らない振りをするの。
またね、と言って。また逢いましょうと言って。

――――決して『さよなら』とは告げないで。

泣いて腕の中に縋り、そして行かないでと貴方を困らせて。
そばにいてと。連れて行ってと。そう叫んだら。そうしたら。
そうしたら未来は変わったのだろうか?そうしたら。

最後に残った微かな指先のぬくもりだけに縋って生きてゆくこともなかっただろうか。

けれども貴方は私の手を離すでしょう。それが貴方の優しさだから。
そしてそんな貴方を私は好きになったのだから。そんな貴方の優しさを。
でもね、ヒースさん。私は貴方のいない場所で暖かい日々を過ごすよりも。
貴方のそばにいて冷たくても苦しくても満たされた日々を送りたかった。


『綺麗な手、だな…俺が触れても…いいのか?』
私にとってはあかぎれだらけの、傷だらけの貴方の手の方が誇り。
『こんな俺が、君に触れても…いいのか?』
地位も身分も何もないけれど、一番大切なものを持っている貴方が誇り。
『…どうして…俺は何もないんだろう…君にあげられるものが……』
私の『生』の中で貴方に出逢えた事が。貴方という存在が私を好きになってくれたことが。
『君をしあわせに…したいのに……』
私にとって胸を張って言える唯一のこと。貴方に愛されたこと、貴方を愛したこと。


…だからずっと…今でもずっと。ずっと私は待っている…貴方だけを…待っている……




地上に咲く小さな花が。今にも風に飛ばされ、消えてしまいそうな小さな花。けれどもその花は咲き続ける。まるで強い意志を持っているかのように、存在し続ける小さな花。儚くけれども強い、その花。
「―――プリシラさん…やっと君を連れてきたよ。この場所に」
あの頃と変わらず咲き続ける小さな花にヒースはひとつ微笑った。ずっとこの花だけは変わらない。毎年この時期にだけ花びらを開く、小さくても強い花。
「やっと約束、護れたよ…プリシラ……」
初めてプリシラをヒースは呼び捨てにした。やっと果たせた約束がそれを彼に許してくれた。やっと彼自身が許された。大事な大事な名前だったから、口に出すことすら憚れる言葉だったから。
今でもこうして空気に触れた瞬間に、溶けていってしまうほどに儚い言の葉だから。
「…やっと…君を……」
その先の言葉を声にしようとして、けれどもそれは今のヒースには出来なかった。口から零れるであろう声はいとも簡単に、嗚咽へと飲み込まれていったから。


逃亡兵としての日々の中でヒースは利き腕を失った。プリシラとの別離以降、彼はただひたすらに戦い続けた。それ以外、自分を見失わない方法を見つけられなかったから。
戦って戦い続けて、そして。そして利き腕を失った。大事な相棒を乗りこなす事が精一杯になったその瞬間、自分は『逃亡兵』という存在ですらなくなった。
戦うことの出来ない傭兵に居場所はなくなった。隊長はそれでも自分を必要としてくれたけれど、足手まといにはなりたくなかったから、自らこの場所から去っていった。そうすることで皮肉にも、自分は『自由』を手に入れた。利き腕と居場所と目的を失った変わりに得た自由だった。
今更何も持っていない男が戦う術を失ったからといって、何かが変わる訳でもなかった。日常の何が変わる訳ではなかった。ただ戦場に出られなくなっただけ、戦えなくなっただけ。相変わらず自分は空っぽで、何も持ってはいない。けれども。けれども、自由になった。―――自由だけを、手に入れた。


『…私を、連れて行って…くださいね……』


動かなくなった指じゃもう絡めることは出来ないけれど。
指先を絡めることはもう、出来ないけれど。それでも。
それでも結ばれたものは確かにあの場所にあって。確かに。
確かにふたりの胸に刻まれていたのだから。
それが果たせない約束だったとしても、それでも結んだのは。

――――それがただひとつの『生きる』ための道しるべだったから。

その日からヒースはただひたすらにプリシラを探した。二度と逢える筈はないと。二度と逢えないとあの日に心に決めた事だったけれど。それでも今何もかもを失った自分が、最期に辿り着いたものがこの約束だったから。この『約束』だったから。
だから、探した。二度と逢えなくても。辿り着けなくても、それでも。それでも、探した。それだけが唯一自分を『生』に繋ぎ止めるものだったから。そして。そして、見つけた。


年老いた皺だらけの手がヒースに差し出される。
『―――貴方が、ヒースさんですね…これを……』
加齢を重ねたかさかさの手のひらにあったものは。
『…これを…貴方に……』
プリシラが何時も身に着けていた、羽飾りだった。


…私、待っています…ずっと貴方を、待っています…貴方だけを、待っています…ヒースさん……


若い頃は綺麗であっただろうその人は実年齢よりもずっと老けて見えた。窪んだ目と真っ白な髪と、そして刻まれた顔の皺が。
『…プリシラは…血は繋がっていませんでしたが、私にとっては大事な娘でした。大事な、本当に大事な……』
疲れ果てたその瞳に落ちる涙はとても綺麗で。とても綺麗だからこそ、それはただひたすらに苦しいものとなる。
『大事な娘だったんですっ!』
それきり泣きじゃくるその人にヒースはただ。ただ何も言えずに見下ろすことしか出来なかった。呆然とただ、見つめることしか。


今でも理由ははっきりと思い出せない。そこだけがぽっかりと大きな穴が開いたように空洞になっていて、自分の記憶から剥がれ落ちている。けれども理由なんてもうどうでもよかった。そんな事よりも何よりも今ここにある突き出された現実だけが全てだったのだから。


『プリシラは…死にました…最期まで貴方の名前を呼びながら…貴方を呼びながら……』


絡めた指先はもう何処にもない。微かなぬくもりすら自分から『死』は奪っていった。
『ヒースさん、約束してください』
気付いていたけど告げなかった。彼女が一生懸命に微笑うから。だから俺も微笑った。君と一緒に微笑った。
『何時か私を連れて行ってくれるって』
彼女の指が震えていたのを。彼女の瞳が潤んでいたのも、全部。全部気付かない振りをして。そして。
『約束、してください』
そして指を絡めた。最期のぬくもりを分け合った。それだけをずっと胸に抱いて生きてゆこうと。それだけを、ずっと。



「…プリシラ……プリシラ…プリ…シ…ラ……っ!!!!!!」



もしもあの時、その手を離さなかったなら。もしもあの時絡めた指を離さなかったなら。もしもあの時君を俺が連れ去って行ったならば。もしもあの時、もしも、もしも……


――――もしもおれが、きみのそばにいたならば?


願ったのは君のしあわせだけだった。君の笑顔だけだった。何もない俺では君をしあわせに出来ないから。君の綺麗な手を穢してしまうから。
だから置いて来た。だから君を置いてきた。暖かい場所でしあわせになれるようにと。
君に血は似合わない。君に戦場は似合わない。戦うしか出来ない男そばにいるような人じゃない。君にはもっと。もっと綺麗な道があるはずだから。
「――――プリシラ…俺は…俺は…っ!!」
ああどうして。どうして、どうして。俺のような命がここにあって、君の綺麗な命がここにないのか。生すらも、意味のないように思えるような男が生き延びて、たくさんの未来を持っている君が死んでゆくのか。どうして、どうして。


「…プリシラ…プリシラ…プリシラ…うううっ…ううっ……うあああああっ!!!!」


きみをだきしめたいのに、もうおれにはきみをだきしめるうでがない。
きみとやくそくをしたいのに、おれのゆびはもううごかない。


―――ヒースさん、好きです。貴方がたとえ何者であっても、私は。
真っ直ぐきみは俺を見てくれた。こんな俺を曇りない瞳で見てくれた。
―――私は…貴方が好きです…そして貴方を好きになった自分が好きです……
君だけが俺にとっての唯一の誇りだった。君だけが俺が唯一胸を張れるものだった。


なぁプリシラ。俺は。俺は間違っていたのか?俺は君に何も出来なかったのか?


ひとつだけ約束をした。ただひとつだけ、約束をした。それが唯一生きるための道しるべになり、絶望を回避する唯一の救いだった。
「ほら、プリシラ。これが、俺が見せたかったものだよ。この花、君みたいなんだ。儚いけど強い…君みたいな花だよ」
どんなになろうとも君の存在が自分の胸にある限り、生きてゆけると。君との約束がある限り生きてゆけるのだと。
「君みたいだろ?ううんこれが。これが『君』なんだ」
瞼を閉じて浮かぶものは君の笑顔だけで。淋しそうに微笑う最期の笑顔だけで。本当は。
本当は君が望んだのはこの笑顔じゃない。君が俺に最期に見せたかったのはしあわせな笑顔だったのに。それなのに自分はそれすらも果たせずに、今。今浮かべているのは泣きそうな顔で笑う君の笑顔だけだった。泣きそうな顔で一生懸命に微笑う君の笑顔だけで。
どうしてそらすらも。それすらも自分は出来ないのだろう。君が望んだ、それすらも。


小さな花のそばにヒースはその羽飾りを埋めた。自分しか知らないこの場所に『彼女』を埋める。そうやってやっと。やっとヒースは約束を果たした。連れてゆくという約束を。



――――指を絡めてした約束は今ここにある。この場所に、在る。



――――ありがとう、ヒースさん。私を連れてきてくれて…ありがとう。
ヒースは懸命に微笑った。涙でぐしゃぐしゃになった顔で微笑った。
――――約束を護ってくれて…ありがとう…だから泣かないで。泣か、ないで。
そうすることしか出来なかった。そうすることしか出来ない。自分がしてあげられる事が。
――――泣かないでください。私は…しあわせなのだから……
彼女の為に出来ることはこんなになっても、生き恥を晒してもそれでも生きてゆくことだけなのだから。


貴方を愛せたことが私の誇り。貴方に愛されたことが私のしあわせ。
こうしてどんなことをしても私との約束を護ってくれた貴方を、誰よりも。
誰よりも私は愛しています。だから。だから貴方は。


胸を張って生きていってください。貴方は立派な騎士なのだから。



花は枯れ、そしてまた咲く。人は生まれ、そして死んでゆく。命は生まれては消え、そして別の命が誕生してゆく。それが自然の摂理。それは生あるものの逃れられない宿命。だからこそ。だからこそ大事なのはその限り在る生をどうやって生きるかということ。どうやって生きてゆくかということ。


一番大切なことは、自分が死ぬ最後の瞬間に、生まれてきてよかったとそう思えること。




「プリシラ、愛しているよ。ずっと愛しているよ。だから俺の胸でずっと君は生きていてくれ」