夜空



見上げた夜空の星の光が、そっと降ってくる。優しく頭上に落ちてくる。そのまま瞼を閉じて永遠の静寂に包まれたならば。穏やかな、けれども何もない日常を取り戻せるのだろうか?


――――何もない日常に戻りたいと願うのは、溢れる想いを止められなくなったから。


目を閉じて、静寂な空気を感じた。夜のしんとした匂いと、微かに冷たさが突き刺さる静かな空気を。このまま夜の闇に同化して、自らの肉体すら消えてしまえたらと心の何処かで願いながら。けれどもそんな願いは、この静寂を乱す存在によってかき消された。
「ここにいたのか、サレフ」
瞼を開かなくても、声を聴かなくても、その存在に気付いていた。この静寂を、心の静寂を乱す、唯一の相手だから。ただ一人の相手だから。
「…ジスト、か……」
それでも気付かないふりをするのは愚かなことだろうか?何でもないと自分に言い聞かせるように、こうして。こうして、今この瞬間に、気付いたふりをすることは。
「捜したぜ、お前の姿が見えなくなったから」
何時も見せてくれる大らかなで屈托のない笑顔。けれどもそれは決して無邪気な子供のするものではない。全てを乗り越えてきた者だからこそ出来る、何もかもを受け入れ、そして越えてきた笑顔。
「少し夜風に当たりたいと思って」
「お前らしーな」
そう告げると、当然のように自分の隣に座ってきた。そうだなと、思う。目の前の男は何時もこうだ、と。こうやって自然に、それが当然とでもいうように。こうして当たり前のように隣にいる。誰に対しても、この男にとっては『距離』などない。そんなものすら無意味になっている。そうだ、壁など無意味だ。
「ジスト」
名前を、呼ぶ。それだけで、微笑ってくれる。その笑顔の裏にどれだけのものを受け入れ、そして越えてきたのだろう?それを知りたいと思う。そしてその中に含まれている自分の存在は、今この男の中でどんな位置にいるのだろろかと。けれども知りたいと思いながらその先の答えを知るのに、怯える自分がいるのもまた事実だった。
「―――ん?何だ」
「君は強いな」
知りたくて、知りたくないもの。どちらも真実だから厄介だ。だから心の整理が付けられない。付けられずに、こうして。こうして、存在だけで乱れる自分がここにいる。
「何だ、いきなり」
「いや、思っていることを言っただけだよ。その強さが私には羨ましい」
何時もそばに在ったものは、穏やか過ぎる静寂だけだった。そこに乱れなど何一つない。繰り返される日常はただひたすらに。ひたすらに、静かな日々だった。だからこうして。こうして、存在だけで乱れてしまう瞬間を…知らない。


その纏う空気を感じるだけで。それだけで、心が。
心が、乱れて。乱れて、どうにも出来なくなる。
息が詰まって、そして。そして、苦しくて。ただ苦しくて。
それでも、追い続けてしまう。それでも、捜してしまう。

――――君の存在を。君の破片を。少しでも君の名のつくものは、全て。


手のひらが伸びてくる。逞しい腕が、背中に廻される。そのままそっと抱きしめられれば、目眩すら覚えるほどに心が乱れる。こんな自分を、今まで知らなかった。知らないから、どうしていいのか分からない。
「俺にとっては…お前の方が強く思えるぜ。俺なんかよりも、ずっと」
たくさんの傷がその腕にはある。腕だけじゃない、身体の隅々まで至るところに。それこそが彼が今まで生きてきた証だった。それこそが、彼の今までの『生』を証明するものだった。
「何故そんな事を言う?」
乱れる心を落ち着かせるために瞼を閉じれば、嫌になるほど高なった自らの鼓動が聴こえてくる。どくん、どくん、と。
「いや思った事を言っただけだぜ。お前の心の芯の強さには、何時も関心させられる」
抱きしめていた手がそっと。そっと、髪を撫でてくれた。普段の力強い腕とは想像もつかないほどの優しさで。それをされるたびに、思うことがある。それはただの我が儘でしかないけれど。けれども、その思いを止められなくて。止められないから…どうしていいのか分からない。


――――この腕を、この優しさを、一人いじめしたい…と……


瞼を開いて、その顔を見つめた。見つめ、た。
「…ジスト……」
夜空の下でも嫌になるほど、鮮やかに私の瞳に焼きつくのは。
「ん?何だ」
焼きついて、そして消えないのは。どうやっても消せないのは。
「…君を…私は望みすぎている……」
それは私がどうしようもない程に、君を。君だけを。
「…君が欲しくて…君に関してはどうしようもないほど…欲張りになる……」
こんなにも。こんなにも、好きになってしまったから。


他人に対して必要以上に望んだことはなかった。逆に必要以上に踏み込んだこともなかった。この地で、ただひたすらに穏やかに。大地と自然に溶け込み、過ごしてゆくものだと思っていた。そうして生涯を終えるものだと。それなのに。それなのに、君は。この静かな私の日常に、何もかもを壊して飛び込んできた。飛び込んで、そして。そして、私の中に決して消える事のない強い楔を打ち込んだ。
「欲張りになれよ。幾らでも。俺は一向に構わねーぜ」
向けられる笑顔の強さを、羨ましいと思う。どんなものでも受け入れられるその強さを。その強さが自分にもあれば、こんな浅ましい欲求など簡単に乗り越えてゆけるのに。
「幾らでも、俺なんてお前にやるよ。欲しいだけ全部」
背中に腕を廻せば、答えるようにきつく抱きしめてくれる。瞼を閉じれば、望み通り唇が降りてくる。重なり合う個所から伝わる体温が、泣きたくなるほどに優しいから。優しい、から。だからもっと。もっとと、願ってしまう。その全てを、望んでしまう。


――――ずっとこうして。こうして、唇を重ねていられたら。そうしたら、全てが満たされるのかな?




重なって、そして離れる唇。
「…お前にやるよ……」
何度も何度も繰り返し。繰り返し、重なって。
「…俺の全部…だから、さ……」
互いの吐息を奪い合って、そして与えあって。
「…だから…ずっと……」
そうして、全て。全て、分け合えたならば。


「…ずっと…お前は…微笑っていて…ほしい……」


きつく抱きしめて。何度も口づけて、そうやって。そうやって、言葉では足りない想いを伝えても。それでもまだ。まだ、消せない淋しさを残すから。
「微笑っていてくれ、サレフ。俺の望みはそれだけだ」
「…ジスト……」
この淋しさを消してやることは永遠に出来ないのかもしれない。それを与えているのが自分自身ならば。それでも。それでも、と願う。
「そうしたら俺は…何だって叶えてやる。お前の望みを全部。だから微笑っていてくれ」
ずっと微笑っていて欲しいと。柔らかい笑みが絶えることがないようにと。それだけが望み。それだけが…願い。


「――――約束、な。サレフ……」


その言葉に無意識に、サレフの口許から笑みが零れる。どうすればいいのかと、考える前に。頭の中で思考を巡らせる前に。自然に、笑みが零れた。
「ああ、ずっと。ずっとそうやって微笑っていてくれ」
その言葉に包まれながらサレフはそっと夜空を見上げた。そこに浮かぶ月は優しく淡い光を湛えている。ふたりを、包み込んでいる。その月は何時もの月だった。日常から切り取られた月だった。


――――もう何もない静寂には戻れない。今ここに在る、このひとがいるこの時間こそが自分にとっての『日常』だから。君がそばにいることが、私にとっての日々だから。