水面の月



手のひらで掬いあげたら、歪んで消えていった水面の月をずっと。ずっと、追いかけていた。跡形もなくなるまで、ずっと見ていた。


ここにあるものが全てではないと分かっていても。それでも目に見えるものでしか確かめる術がないとしたら。この気持ちを確かめるにはどうしたらいいのだろう?
「―――ジスト」
視界に映る広い背中を確認してから、その名を呼んだ。今ここにいるのだと、自分の目の前にいるのだと、それを。それを、確かめたくて。
「何だ?サレフ」
振り返った先の顔が自分の想像と一寸の狂いもない事に安堵を覚え、そのまま手を伸ばした。無精ひげに触れて、確認する。自分の知っている感触と間違えがないのだという事を。自分が知っているこの感触だという事を。
「月が翳ってきた」
「ん?そうだな…このままだと真っ暗になっちまう」
柔らかい笑みは、何時でも眩しい。不思議だ、あれほど血にまみれて生きてきた癖に、こんなにも眩しい。それはまるで太陽のように。
「君は、闇は嫌いか?」
顎に触れていた手のひらをそのまま背中に廻した。広くて大きなその背中に。大好きで不安になるただひとつの場所へと。
「お前にこんな事されるなら、闇は嫌いじゃねーよ」
月が隠れてゆく。雲に隠されてゆく。ゆっくりと闇が漂い、景色を静かに隠してゆく。それを見届ける前に堪え切れずに…その唇を塞いだ。


水面に映る月が、そっと自分を見ていた。ただ、見ていた。そこに映し出される自分がひどく哀れに思えて瞼を閉じた。現実から隔離されたくて、視界を閉鎖した。


どうしてこんなにも。こんなにも確かめずにはいられない?
「…ジスト…好きだ……」
繋がった想いは手に取る事が出来なくて。結ばれた気持ちは目には映らなくて。
「…サレフ……」
こうして代償に、君に触れる事でしか確認出来ない。気持ちを、想いを。
「…本当に君が…好きなんだ……」
君のぬくもりと、君の体温と、君の感触と、君の熱を。
「…どうしたら全部…伝わるのだろう……」
その全てを確かめても、今この瞬間に確かめても。


――――次の瞬間にまた。また、不安になってしまう。まだここに在るのかと。


唇が離れれば、睫毛が触れる距離にその顔があって。その瞳に映るのが自分だけになって。他の何も映さなくなって初めて、安堵した。君が見ている相手が自分だけだという事実に。
「サレフ、お前は欲張りだな」
優しい笑みと、穏やかな瞳。それは色々なものを乗り越えてきた先に形成されたもの。とても、強いもの。
「こんなにお前に惚れてるのに…もっと俺を望むんだな」
「…ジスト……」
欲しい。もっと、欲しい。全部、全部、欲しい。君の何もかもが、私は欲しい。君の全てが。
「こんなにお前しか…見えてねーのに……」
再び、睫毛が重なる。そのまま唇を重ねた。先ほどの名残の熱が残る唇を、どうしようもない想いで重ねた。どうにも出来ない想いを込めて重ねた。


歪んで消えてゆく水面の月はまるで。まるで、不確かな『想い』のようで。目には見えない気持ちのようで、ただ。ただどうしようもなく不安にさせる。不安に、なる。


永遠なんていらない。終わりがそこにあってもいい。
今ここで全てが終わってしまってもいい。こうして、君に。
こうして君の腕の中にいるこの瞬間ならば。


―――――何もかもが、なくなってしまってもいいのに………


力強い腕が引き上げる。私を抱きしめて、その力が現実へと戻してゆく。全ての終わりを密かに願う私を、ここに存在する『今』へと。
それはとても不安定で、それはとても揺らいでいて。けれども。けれども、触れられるもの。こうして、手のひらで確認出来るもの。


「いくらでもやるから、俺のそばにいろ。俺なんて幾らでもお前にやるから」


そして。そして降り注ぐ声が、穏やかでけれども強いその声が。その声が、何時も。何時も砕いてゆく。不安定で歪んでいて、そして揺れている私の心を。
「全部、お前のもんだ」
額に落ちる口づけは不器用な程優しいものだった。微かに当たるヒゲの感触と一緒で、もどかしい程暖かいものだった。それは今。今こうしてそばにいなければ与えられないもの。今ここにいなければ、感じられない事。確かめられないもの。


――――愛は目に見えないけれど。気持ちの全てを確かめる事は出来ないけれど。


それでも、こうして触れられる。睫毛を、唇を。
「全部、私にくれるのか?」
気持ちを、言葉を、紡ぐ事が出来る。全てを伝えられなくても。
「全部、全部、私にくれるのか?」
想いの全てを見せつける事が出来なくても。それでも。
「やんよ、全部。全部お前だけのものだ」
それでも伝わるものがあるから。それでも告げられるものがあるから。


飽きるほど告げよう。呆れるほど伝えよう。君が好きなんだと。君だけが好きなんだと。


水面の月は永遠に閉じ込めておくことは出来ない。この手のひらに閉じ込める事は出来ない。この想いもきっと永遠に閉じ込める事は出来ないだろう。それでも。それでも、今こうして。こうして触れあっている感触は現実だから。今こうして紡いでいる言葉は本当の事だから。


「好きだよ、ジスト。君だけが好きだよ」


現実の中に落とした言葉の破片は、きっと。きっとこの世界の何処かにずっと。ずっと、漂ってくれるのだろう。この想いとともに、ずっと。