―――永遠に消える事のないこの傷に刻み込まれたのは、貴女への想い。
やわらかいその髪に指を絡めて。息が出来なくなるほどきつく抱きしめて。抱きしめ、て。このまま二人だけで。ただふたりだけが在る場所まで―――逃げてゆけられたならば。
何時も言葉にしたくて、けれども声に出すことの出来ない想いがあった。それはずっと私の胸の奥に存在し、決して消える事のないものだった。消したくても…消えないものだった。
「―――ゼト」
私が貴方の名前を呼ぶ時、どうしても無意識に含まれてしまう想いがある。どんなに抑えようとしても、必死に閉じ込めようとしても、どうやっても零れてきてしまう想いが。私の身体から心から溢れてきてしまうものを、止める事が出来ない。
「どうしたのですか?エイリーク様」
見上げて、そして見つめる。穏やかで深いその瞳を。ずっと見つめていられたらと、思う。それだけを、願う。それは我が儘な願いなのでしょうか?
「…いえ…なんでもありません。貴方の姿を見かけたので…つい……」
その先の言葉を寸での所で口の中に飲み込んだ。その先は、許されないことだ。許されない、想いだ。私はルネスの王女なのだから。私の頭上には、見えない王冠が掲げられているのだから。その王冠があるからこそ、この人は私のそばにいてくれる。私を護ってくれる。それだけだ。それだけ、なんだ。
「それではすみませんが、私はこれから他の者達と次の戦についての打ち合わせがありますので…失礼します」
真っすぐに私を見つめ、深々と頭を下げると振り返ることなくこの場を去ってゆく。それが。それが、貴方と私の距離だった。決して、埋められることのない距離、だった。
ずっと追い続けたのは貴方の影だった。
『待って、待って、ゼト』
幼い私は気付けば兄上よりも先に。誰よりも真っ先に。
『はい、エイリーク様。私はここにいますよ』
貴方を捜していた。貴方だけを。
『だめよ、ゼト。何処にもいっちゃだめなのよ』
小さな私は貴方に届かないから、その影を必死に。
『何処にも行きませんよ。ずっと貴女のそばにいますよ』
貴方の影だけを、必死に追いかけていた。
――――今は貴方に届くくらいに背が伸びたのに…どうしてだろう?あの頃よりもずっと貴方が遠いのは……
見えなくなった背中を追い続けた。少しでも残っている貴方の破片を、この手に抱きしめたくて。
「…ゼト……」
生まれて初めての恋だった。きっと最初から、出逢ったその時から、貴方だけに恋をしていた。貴方の優しい瞳に、ずっと。ずっと、恋をしている。
「…私は…貴方が……」
もしも私がルネスの王女ではなく、ただの一人の女だったならば。もしもただの平凡な少女だったら、貴方は私を受け入れてくれたでしょうか?私がルネスの王女ではなく、何も持っていないただの少女だとしても。
「…貴方だけが……」
私がただの『少女』でも貴方はそばにいてくれる?貴方は私を護ってくれる?その答えを聴くのが怖くて、何時も言葉を閉じ込めてしまう。寸でのところで、何時も。
「………き………」
それはとても、矛盾した想いだ。私が王女でなければ、この想いを告げる事が出来る。けれども王女でなければ、貴方に出逢えなかった。平凡な少女になって貴方に恋をしたいと願いながら、王女という立場があるからこそ貴方のそばにいられるのを嫌というほどに理解している。この安全な場所から離れられない癖に、貴方を手に入れたいと願う。それはどんなに、浅ましい願いなのだろうか?
それでも、止められない。止める事が、出来ない。貴方への想いは溢れて、そして。そして少しずつ私から零れてゆく。零れたものは、何時しか。何時しか貴方の元へと届いてしまうかも…しれない。
――――その瞬間に怯えながら、けれども何処かで願う自分がいる。愚かな一人の女がここにいる。
追いかけてくる貴女が愛しくて。必死になって追いかけてくる貴女が。
『本当に何処にもいかない?ゼト』
幼い貴女に追いかけて欲しくて、わざと少しだけ早く歩いていた。
『いきませんよ、何処にも』
そうやって私は確認していた。貴女にとっての私の存在を。
『うん、いっちゃ駄目。ゼトはエイリークの「きし」だから』
そうやって、確かめていた。私が貴女にとって必要な存在であることを。
――――貴女のそんな遠影だけを追い続けてれば、こんなに苦しくなかったのかもしれない。
ちくりと痛む傷に、悦びを覚える私はどこまでも愚かな男なのだろうか?この永遠に消える事のない傷跡と痛みに。
「―――エイリーク様……」
振り返った先に貴女はいないのを確認して、やっと。やっと私は素顔に戻ることが出来る。貴女の前でかぶり続ける仮面を外すことが出来る。
本当はどうしようもない程に、貴女に恋焦がれているのに。どうにも出来ないほど、貴女だけを求めているのに。けれども私は騎士だ。貴女だけの騎士、だから。
「…私は…エイリーク様…貴女だけが……」
貴女が子供のころ私に告げた言葉は、こうして。こうして今心に強い楔となって根付いている。まるで呪いのように、私を締め付けている。
貴女が望む騎士になろうと、誰よりも立派な騎士になろうと。そうあればある程に、私自身は追い詰められてゆく。本当は貴女の騎士になるよりも、もっと。もっともっと、私の心にはどす黒い欲望が流れている。心の奥を埋めている。
「…私は貴女だけを………」
私はどこまでも愚かな男だ。貴女のために受けたこの傷にすら、貴女との繋がりを見出し悦びに変えてしまう。この痛みこそが貴女への愛だと、そんなくだらない自己満足に浸ってしまう。どんな些細なことですら…貴女の破片を捜してしまう。
「……ています………」
願いはただ一つだった。貴女の望む騎士になること。貴女のそばに仕え、貴女の頭上の王冠を護ること。貴女の全てを護ること。けれどもそれ以上に。それ以上に心の奥底に湧き上がる欲望が。激しく私を蝕んでゆく。もうそれを。それを、止めるすべを知らない。
――――何時しかこの想いが貴女をずたずたに引き裂いてしまうかもしれない。そんな日が来ないようにと願いながら、心の何処かで怯えながら望む自分がいる。
絡めた指先に、誓った約束は。あの時、願った想いは。
『はい、エイリーク様。私は貴女の「騎士」です』
大人になった私たちを傷つける。傷つけて、少しずつ。
『うん、約束ね、ゼト。ずっと私の「きし」でいてね』
少しずつ、内側から。内側から、ふたりを壊してゆく。
――――護りたいものと、壊したいものが、同じなら。同じなら、どちらを選べばいいの?
あの頃の二人のままでいられたならば、それはとても穏やかで幸せな日々だったかもしれない。けれども。けれどもあの頃のままだったら、知ることは出来なかった。こんなにも人を愛するということを、知ることは出来なかった。
それが幸せなことなのか、不幸なことなのかは、分からない。分かっているのはただひとつだけだった。ただひとつだけ―――あなたを愛しているということだけだった。