――――睫毛の先から零れた雫が、ただ。ただ切なくて。
その先に何もなくても、それでも離せなかった。この指先を、この手のひらを。どうやっても離す事が出来なかったから、きつく結んだ。許されないと分かっていても。赦されないと知っていても。それしか出来なかった。それしか、出来なくて。
「リオン…リオン…」
右手に握られた剣はその心臓を突き抜ける。ただひとつの命をゆっくりと奪ってゆく。ゆっくりと貴方が死んでゆく。あんなに激しい戦いだったのに、どうして今この瞬間訪れようとする死は、こんなにも穏やかなのだろうか?
「あの、さ…エイリーク…僕、ずっと勇気がなくて言えなかったけど…」
穏やかな死を見つめながらもう一方の手をきつく握り締めた。それしか出来なくて。それしか出来なかったから。このただひとつのぬくもりをきつく、結んだ。
――――微笑いながら君が泣くから。だから僕は手を伸ばした。一生懸命に手を伸ばした。君の涙を拭いたくて。君の綺麗な涙が、欲しくて。
夢のような日々は瞼を閉じればすぐそこに。明るくて優しい光は胸の記憶を辿ればすぐそばに。いとも簡単に浮かんでは、心の中で再生されるのに。本当に当たり前のように私のそばに在ったのに。どうしてこんなにも遠い場所にまで来てしまったのだろう?どうしてこんなにも遠い場所まで、辿り着いてしまったのだろうか?
『エイリークありがとう、友達になってくれて。嬉しいよ』
差し出した手のひらを握り返したのはまるで昨日の事のようで。今でも目を閉じればすぐにその場面は浮かんできて、その時の手のひらのぬくもりもまだずっと残っているのに。
『君のお陰で僕は頑張れる気がする。これから先も、ずっと…どんな事があっても』
あの時の笑顔も、あの時も瞳も、あの時も声も、全部。全部、私のそばに在るのに。一番近い場所に在るのに。
『嬉しいです、リオン。貴方にそう言ってもらえると…私も頑張れる気がします』
見つめあって少しだけ恥ずかしくて、でも何だか嬉しくて。心がくすぐったいような感じがして、けれどもそれ以上に込み上げてくるものがあって。暖かくて優しくて、そして少しだけ切ない想いが込み上げてきて。
『同じだね、僕たち。同じ気持ちだね』
『同じですね、リオン。私達一緒ですね』
言葉を確かめるようにきつく手のひらを結びあった。そのぬくもりが同じ温度だったから、だから見つめあった。瞳を重ねて、微笑いあった。嬉しくて恥ずかしくて、ふたりして声を上げて微笑った。それはきっと。きっと何よりもしあわせな時間だったんだ。どんなものにも代えられない大事な時間だったんだ。
――――もう、戻ってこないから…戻れないから…かけがえのないものだったんだ……
その気持ちの意味に気付いた瞬間に終わりがやってきて、その意味に辿り着いた時そのぬくもりは消え去って。繋がった瞬間に、全てが飛び散った。
伸ばされたもう一方の指先。そっと伸ばされた指先。震えながらも懸命に伸ばされた貴方の指先。何よりも誰よりも大切な、ただひとつの手のひら。
「…リオン…リオン……」
けれどもその指先は届く事はなくて。静かに宙を舞い、ゆっくりと落ちてゆく。ゆっくりと、静かに。私はその手を掴みたかったけれど、出来なかった。この血塗れの手で貴方の手を握る事は出来なかったの。だから綺麗な左手だけきつく結んだ。解けないように、きつく。
「…リオン…私……」
どうしてかな?どうして私は微笑う事が出来るのかな?今この瞬間にも貴方の命が消えてゆくのに。私のこの手でその命を奪ったのに。どうして?どうして私は微笑っているのかな?どうしてなのかな?教えて、リオン――――
ただ君が。君がずっと微笑っていてくれたならば。何よりも綺麗な君のその瞳が曇ることなく、ずっと。ずっと透明なままでいてくれたならば。
『…リオン、私たちずっと…ずっと友達ですね』
うん、ずっと。ずっと友達でいいよ。僕は君がそばにいてくれるならば、君が僕に微笑ってくれるならば、どんな言葉でもいい。どんな関係でもいい。ずっと、君の笑顔を見る事が出来るならば。
『私も頑張れる気がします。リオンと一緒ならば』
僕の心がもう少しだけ強かったならば、違う道を選べたのかもしれない。もっと違う答えを出す事が出来たのかもしれない。けれどもこうして魔王に取り込まれたのは誰のせいでもなく自分自身のせいで。結局はこの結末も僕自身が選んだものだった。僕自身が弱くてちっぽけだったから辿り着いた場所だった。
「…リオン…リオン……」
君の声が遠ざかってゆく。君の輪郭が歪んでゆく。ゆっくりと静かに訪れる死が、僕から君を遠ざけてゆく。僕を遠い場所へと連れてゆく。
「……ク………」
でも怖くはなかった。もう何も怖くはない。ただひとつだけ後悔があるとすれば、今。今君の瞳から零れ落ちる涙を拭えない事だけだ。この手で拭う事が出来ないだけだ。懸命に伸ばした手のひらが君に。君に届かない事だけだ。それだけだ。それ以外は何も、もう何も。
「…きみのこと 好きだった……」
最期に映るものが君の笑顔ならば僕はもう何も怖くないと思った。全てを失っても何もかもが消え去っても、僕の瞳に映る最後の残像が君だったならば…僕はもう何も。何もかもが『無』になっても怖くはなかった。君が、君の笑顔がここに在れば。君が、ここに……
――――君が微笑う。君が微笑む。何よりも綺麗に、何よりも優しく。だから、僕はもう何も怖くはない……
繋がった指先からそっとぬくもりが消えてゆく。そっと静かに消えてゆく。それを少しでもこの地上に留めておきたくて、きつく。きつく指先を結んだ。
「…はい、リオン…私も…私も貴方が好きです……」
微笑えたのはきっと。きっと貴方が告げてくれるであろう言葉に気付く事が出来たから。結ばれた手のひらから、伸ばされた指先から、その言葉が伝わったから。だから微笑えた。だから微笑える事が出来た。繋がったから、気持ちが結ばれたから。
「…大好きです…リオン……」
告げて、伝えて、そして泣いた。声を上げて泣いた。もう何処にもいない貴方に。もうどこにもないぬくもりに。そして失って初めて結ばれた想いに。
――――君の笑顔を見ていたい。ずっと、そばでみていたい。どんなになっても、ずっと僕は……