箱庭



――――ずっと、えいえんに、ふたりきり。ふたりきりで、しあわせ。


君が、微笑う。穏やかに優しい笑みで。
それを見ているだけで、私は何もいらない。
何も、いらないんだ。君が、こうして。
こうして私とともに微笑んでくれさえすれば。


何もいらない。私は君の他には何も欲しくない。君がここに在れば、いい。


長い夢から覚めた瞬間、世界は一面の紅い色に染まった。睫毛の先から赤い液体が零れてきて、それが目の中に入って、そして。そして視界が一面鮮やかな紅い色になって。
「モニカ…」
愛しい君の名前を呼んで。君の名前だけを、呼んで。ああ、そうだ。そうだ今目が覚めた。今気付いた。私は長い、長い夢を見ていた事に。とても幸福な夢を見ていた事に。自らの人間としての尊厳や、理性を全て捨てて。全て、捨てて。そしてただひとつの幻を手に入れた。それはとても、甘くて。甘くて、逃れられない蜜の味。全身を痺れさせ、蝕む甘い毒。囚われ逃れられない、甘い甘い…蜜。
『…愛している…モニカ……』
最期の言葉は掠れて声にならなかった。口を動かすのが精いっぱいで。そんな唇も痺れて、もう唇を動かす事すら意味のない事なのかもしれない。それでも、告げたくて。それでも、伝えたくて。

…モニカ…愛している…愛している…ただひとりの私の妻…君がいてくれれば私は何も…何も…いらない……

命が尽きる瞬間、君の笑顔だけを思い浮かべる。それは何よりも幸せで、何よりも幸福な瞬間。君の幻に全てを奪われ、主君を裏切り自らを滅ぼした私にとっては、贅沢すぎるほどの幸せな死の瞬間。許されないほどのしあわせな死の瞬間。―――しあわせな、しのしゅんかん。



――――ずっと、ながい、ゆめを、みていた。



初めて出逢った時、はにかむように微笑ったあの笑顔が忘れられなくて。忘れられないから、ずっと。ずっと、瞼の裏に焼き付けておいた。
『…オルソン様ですね…初めまして、モニカです……』
俯きながら恥ずかしげに私の名前を告げて。告げてからそっと顔を上げた瞬間。その瞬間にはにかむように微笑う。その瞬間、私は君に恋をした。永遠の、恋を。


本当は男らしく自分から告げたかったのに、恥ずかしがり屋の彼女の方から先に告げてくれた。想いを、告げてくれた。
『…好きです…オルソン様……』
やっぱり恥ずかしげに俯きながら、それでも耳が真っ赤になっているのが分かって。それがあまりにも。あまりにも愛しくて、堪らなくなって。
『…オ、…オルソン様……』
驚く彼女の瞳を瞼に焼き付けながら、きつく。きつく、抱きしめた。想いの全てを込めて抱きしめて、そして告げる。―――私も、好きだ、と。


お互いに緊張して、どうしようもなく震えて。私も馬鹿みたいにどぎまぎして。何回も何回も、タイミングを見計らって。そんな事をしていたら額がぶつかって、そのまま。そのまま唇が、重なって。
初めてのキスはとても甘くて。甘くて、そして。そしてどうしてか、ひどく切ないもので。切なくて、苦しいもので。
『…オルソン様……』
唇が離れた瞬間、君が頬に一つ涙を零した。それがうれし涙だったのか、別の意味だったのかは今でも分からないけれど。分からないけれど、綺麗だったから。哀しいくらいに、綺麗な涙だったから。その涙にそっと唇を這わせ、零れる雫を舌で舐めとった。


初めて指を絡めて眠った夜。もう怖いものは何もないと本気で思った。彼女さえそばにいてくれれば、それだけでいいと。それだけで、いいんだと。
穏やかに眠る彼女の髪を飽きるほど撫でながら、暖かい身体をそっと抱きしめた。素肌から伝わる命の鼓動が、泣きたくなるほどの幸せを与えてくれる。自分に彼女という存在を与えてくれた全てのものに感謝したい。この人を私に、与えてくれた全てに。
彼女のために、生きる。私のために生きてくれる存在がいる。それはどんなにしあわせなことだろう。どんなに、幸福なことなのだろう。どんなに富を得ても、どんなに名声を得ても、この満足感は得られる事はない。この、溢れるほどの満たされた思いを。
『…ん……』
腕の中の彼女が身じろぐ。そんな瞬間ですら、どうしようもなく愛しい。愛しくて、愛しくて…どうしようもないほどに愛している。愛して、いる。それはどんなに幸せなことなのだろうか。どんなに…幸福なことなのだろうか……。


頭上から鳴り響く鐘が、溢れる光が、ふたりを祝福してくれる。これからふたりで歩む人生がどんなものになろうとも、私は君を愛してゆくから。
『…オルソン様…いえ…あなた……』
些細なことで喧嘩をしたり、時には意見をぶつけ合うこともあった。でもどんな時も二人で話し合い、解決してきた。これからも色々な事があるだろう。でも。でもふたりでならどんな困難でも乗り越えてゆける。二人で、なら。
『…私、幸せです。あなた……』
私も幸せだ。君という存在に出逢えた事、君という存在を与えてくれた事、君とともに生きる未来。幸せで、幸せで、どうしていいのか分からないくらい。君がこうして私とともに生きてくれる事が。私の人生に君がいる事が。どんな場面でも、どんな瞬間でも、私のそばに君がいて欲しい。ずっと君がいて欲しい。それが私の願いだ。ただひとつの、願いだ。
『…しあわせです…あなた…あなた…』
それだけが、ただひとつの…ただひとつの……




「あなた」
「あなた」
「あなたあなたあなたあなたあなた」




繰り返し、繰り返し、再生される夢。そこに終わりはなく、出口もない。小さな箱庭の中で、繰り返し再生され続ける夢。
「・・・これはもはや生きているとは言えません。私が・・・」
「いや・・・俺がやろう。・・・毎日をここで二人で過ごしていたのか。オルソンは狂っていた。だが 幸せだったのだろうな・・・」
そして、見ている夢が完成した瞬間。その瞬間に、全てが終わる。何もかもが、終わる。



――――きみがいれば、しあわせ。きみが、わらっていてくれれば…しあわせ……