十字架



胸に刻まれる永遠に消えない、罪の痕。


冷たい刃物が胸元に突き刺さり、そのまま十字に傷を作った。白い肌に血の紅が染まり、そのままぽたりと零れた。
「―――これで私はエルト兄様だけのものです」
胸をはだけ、刻んだ傷を晒し。そしてそのまま。そのまま細い腕が背中へと絡みつく。微かな甘い髪の薫りと、そしてむせかえるような血の匂いが交じり合いながら。
「…ラケシス……」
抱き付く細い身体を受け止め、零れる胸元の血を舌で辿った。皮膚に傷を付けただけだから命には別状はない。けれども刻まれた傷は、きっと痕になって残るだろう。それでも。それでも、彼女は自らの手でその傷を切り刻む。それこそがただひとつの。ただひとつの、真実だった。
「この傷に誓う、ラケシスは貴方だけのものです」
自分を見上げるサフィアの瞳。揺るぎ無く真っ直ぐに自分を見つめるその瞳が。今は痛いほどに胸に突き刺さる。こころを、抉るように。
「ラケシス…俺は……」
「私の全ては、貴方だけのものです」
その抉られた楔が奥深くに埋めこまれ、そのまま内側から根付いて全身を絡め取る。それから逃れないと気付いていたから。ずっと前から気付いていたから。だから重なってくる唇を拒む事は…出来なかった。


一番近くて、そして遠い人。
一番そばにいて、そして一番離れている人。
それが貴方だった。それが貴方と私だった。
こうして指を絡めて眠れても。
眠れても、結ばれる事が許されない。


――――永遠に、ひとつに、なれない。



「この傷は、消えない…どうしてこんな事をする?」
指が、触れる。私の傷に貴方の指が、触れる。その感触に睫毛が、震えた。
「私の永遠の罪を、刻むために」
綺麗な指が、大きな指が、私の胸元に触れる。ふれ、る。
「それならば俺も刻まないといけない」
その感触だけで私にとってはどんな快楽よりも快楽だった。
「俺も…罪に堕ちている……」
貴方が触れていると言う事だけが。それだけが、私には大事。


「―――兄様…愛しているわ……」


抱いて欲しかった。罪に堕ちていると言うのならば、この身体を繋いで欲しかった。
けれどもそれは叶わない。叶わないと、分かっている。貴方は永遠に私を聖女だと。
永遠に綺麗な女であって欲しいと願う限り。私を全てから護ろうとする限り。


貴方は自分の手で、私を穢す事は、出来ない。


だから私は自ら穢すの。自ら傷つけるの。
こうして胸に消えない傷を作って。こうして私を傷つけて。
貴方が望む『完璧』なモノを壊してゆくの。
それは私が女だから。生身の女だから。貴方を愛するただの女、だから。


「…抱いて…兄様…愛しているから……」


何時しか私の頬に零れる涙を、貴方の指がそっと掬い取った。濡れた指先をそのまま貴方は自らの口へと持ってゆき、舌で涙を辿る。そんな事でしか私達は、絡み合う事が出来なくて。
「それは出来ない…ラケシス…それだけは俺は……」
ええ分かっている。分かっているわ、それが貴方の愛の証。私への想い。私への想いの、全て。愛していない女は抱けても、愛している女は抱けない…それが貴方の唯一の想い。分かっている。分かっているの、痛いほどに。けれども。
「お前を愛しているから…俺の手では…穢せない……」
けれども抱いて欲しかった。私は女だから、愛されている人の腕に抱かれたかった。そうでなければ、誰も。誰も私には触れさせはしない。貴方以外に誰も、触れさせはしない。
「―――お前だけが、俺の男としての『誇り』だ」
唇が胸の傷に、触れた。それが貴方の誓いで、証だった。刻まれた傷に、想いを注ぎ込む。それが貴方の、唯一の愛の証だった。


こころだけが結ばれていれば。どんなになってもこころだけが。
こころだけが、結ばれていれば。こうして想いだけが、繋がっていれば。
しあわせだとそう。そう思える日が来るのだろうか?



――――身体なんて繋がなくても…想いが繋がっていれさえすれば……



ただひとつの、俺の誇り。ただひとつの俺の綺麗なもの。
お前だけが、唯一綺麗な場所にいる。綺麗な場所に、在る。
お前だけがそこに。そこに、存在している。俺のただひとつの。
ただひとつの穢れなき場所に。それは。

それは欲望と髪一重でありながら、絶対に俺には触れられない場所だから。


愛した女は。ただひとり、愛した女は。
俺にとって永遠の聖女だった。俺にとって。
絶対に穢す事の出来ない、運命の女だった。
お前に導かれ、そして俺は堕ちていっても。
それがお前も望むのならば、幾らでもこの恋に身を焦がそう。


愛しているんだ。お前だけを、愛しているんだ。




「…愛している…ラケシス……」




ふたりのこころに刻まれた十字架は永遠に消えない罪として、深く抉られてゆく。
けれどもそれは。それは確かに互いが望んだ事、だった。