何時も息苦しくて、もがいていた気がする。『ここ』には僕の居場所は何処にもなくて。世界の何処にも僕の場所がないような気がして。進む事も戻る事も出来ずに、立ち尽くすしか出来なくて。
『――― 一緒に、逃げるか?ここから逃げるか?』
今になってどうしてその言葉を思い出したのだろう?もうほんの小さな子供の頃の記憶なのに。どうして今こんな時になってその事を思い出したのだろう?
瞼を開いた先にある変わらない寝顔にひどく安心感を覚える。普段は上げられた前髪も今はこうして下ろされて、強い意志を持った額は隠されていた。それが衝動的に見たくなって、そのまま手を伸ばそうとして…けれどもその手は宙に止まった。
「…レックス……」
髪に触れる前にその名を呼ぶ。けれども返ってくるのは寝息だけだった。それにひどく安心感を覚えながら、逆にどうしようもない不安に襲われる。そのどちらもが目の前の彼から起因しているものだから、どうにもならなかった。ただ矛盾した感情をこうやって胸の奥で折り合いをつける以外には。
「…僕は本当に…これで良かったのかな……」
飛び出したのは自分の意思。エーディーンを救いたいというその想いだけで。そんな自分の我が儘に迷う事無く着いてきてくれた相手。エーディーンは自分には振り向いてはくれなかったけれど、今となってはそんな事すら甘酸っぱい優しい想い出となっている。それは全て今、ここにいる存在があるから。君が僕のそばにいるから。
――――それなのに僕は、止められない。壊れてゆくのを、止める事が出来ない。
色々なものが積み重なって、静かに心を壊していくのを止められなかった。多分それが、僕がずっと捜している答えのせいだろう。多分永遠に見つかる事のない答えのせい。そしてそれを分かっているのに止められないのは僕がどうしようもなく弱くて、そしてちっぽけな存在だから。
「…僕は…結局…全てから逃げているだけなんだろうね……」
居場所がなくて。何処にもなくて。与えられる優しさは何処か偽りで恐怖すら感じた。どうしてだろう?あんなにも兄は僕にとって優しいものだったのに。なのにどうして、僕は兄の世界にはいてはいけない存在だとそんな風に思ってしまうのは。どうしてこんなにも優しさを怖いと思うのか?
「…エーディーンを助けたいという気持ちに嘘はなかったのに…結局兄さんから逃げる為の口実になっていた……」
君はきっとそんな僕の弱さを見抜いていた。見抜いていたからこうしてそばにいてくれる。こうして僕の、そばに。
宙に伸ばした手をそっと降ろして、君の髪に触れた。見掛けよりもずっと柔らかいその髪に。その感触に泣きたくなるほどの安堵感を覚えてしまった僕は、愛と依存の違いがもう分からなくなっていた。
目を閉じれば思い出す記憶がある。それは幼い二人で。何も知らない子供の二人で。僕は母親を亡くして泣きじゃくっていた。そんな僕に差し出されるのは君の手。変わることなくぶっきらぼうで優しい君の手。
『アゼル、泣くな。男は泣くもんじゃねーぞ』
そう言いながらも髪を撫でてくれる手のひらは優しい。ずっと、優しい。君のその不器用な暖かさが僕のそばにはずっとあったのに。
『でも…お母様は何処にもいない…僕のいる場所も…もうどこにもない……』
こんなにも遠い昔から、ずっと。ずっと僕のそばには君の優しさが漂っていたのに。どうしてもっと早くにこの優しさに気付けなかったのか?どうしてこの優しさに…溺れなかったのか?
――――君の腕の中が僕の居場所なんだと…そう信じる事が出来たのに……
好きだと気が付いて、この想いが愛だと気が付いて。こうして想いを確かめ合い肌を重ね合い、君の熱に溺れた。なのに僕は壊れてゆくのを止められない。ぽろぽろと僕が剥がれてゆくのを、止める事が出来ない。
君を願えば願うほどに、失う恐怖に怯えた。君に与えられれば与えられるほど、終わりのない欲望に怯えた。それは兄さんに対する恐怖とは違う、もっと深くて直接的な想いだった。
「…レックス…好きだよ……」
君がいるか前に進む事が出来る。けれどもその先に在る道は細い一本の糸で、今にもぷつりと切れてしまいそうな程頼りないもので。それでも加速する想いが脚を止める事を許してはくれない。
「…君だけが…好きだよ……」
愛する事と依存する事の違いが、今の僕には分からなかった。こんなにも君が好きで、君のそばにいたいと願い。こんなにも君の腕を望み、君に引き上げられたいと願う。僕が望むものが全て君になってゆく。君が起因するもの全てを僕は望んでしまう。
「…大好きだよ…レックス……」
愛と依存の狭間で、僕は何を願うのだろう?君から僕は何を奪いたいと、僕は君から何を奪われたいと、祈るのだろうか?
お題提供サイト様 確かに恋だった