…お前の全てを、護りたい。
お前を傷つけるもの全てから。お前を哀しませるもの全てから。
その全てをこの腕で、この瞳で、護りたい。
この両腕が無くなっても、俺はお前を抱きしめる。
「…ホリン…風が、出てきたな…」
艶やかな長い黒髪を、アイラは無造作に掻きあげた。その指先は驚く程に細くて。普段あんなにも大剣を振り回しているのが想像出来ない程に。
「そうだな」
ホリンはそれだけを答えると、その後は無言で空を見上げた。その空は哀しい程に蒼い色彩だった。
…ホリン、と…再び名前を呼ぼうとしたアイラの唇が不意に止まった。瞳を向けた先の横顔にひどく、切なさを感じて。
……このひとが、好きだった。
自分でもどうしようもない程。このひどく無口で、無愛想なこの人が。誰よりも強くて、誰よりも…遠い人が…。
とても。とても、好きだった。
アイラは少しだけ、彼に近づいた。それが今の自分には精一杯の距離だった。
ホリンは名にも言わない。何故ここにいるのか、何の為に戦うのか。何時も皆の輪から外れ独り、冷静な瞳で周囲を見つめている。けれども戦う時は。
戦う時は必ず、何時も最前線に立っている。一番、危険な場所に。
…初めはただ、一緒に戦う仲間でしかなかった。
剣士と言う職業柄、何時もふたり最前線にいた。特に言葉を交わす訳でもなく、ただ。ただ互いに戦っていた。それだけだったのに。
何時の間にそれが恋に、変わったのだろう。それは余りにも突然で、そして余りにも自然だった。
…気づいた時にはもう…瞳が奪われていた。心が、奪われていた。全て、奪われていた。
ホリンの無言の優しさに、気が付いた時。その優しさに触れた、時。
泣きたくなったのを、覚えている。
このひとが、好き。今自分が持っている、唯一の真実だった。
「…アイラ…」
低く少しだけ掠れた声。その声に弾かれたように見上げた自分の顔は、今彼の瞳にどんな風に映ったのだろうか?
「な、に?ホリン」
余程妙な顔をしていたのか、ホリンは少しだけ首を傾げて自分を見下ろした。そして。そして次の瞬間。泣きたくなる程優しい笑顔で、微笑った。
「いや、そんな顔をするとは思わなかった。驚かせたか?」
滅多に微笑わない彼。だからこそ時々見せてくれるその笑顔に。その笑顔に全てを奪われてしまう。とても綺麗でそして、何よりも優しい笑顔に。
「…いや…考え事をしていたのでな…」
「シャナンの事か?」
…お前の事、だ…そう言えたらばいいのに。そうすれば楽になれるだろうか?
「まあそんな事だ」
素直になれない自分が嫌い。他の女の子は皆素直に想いを告げるのに。どうして自分はこんなになってしまうのか。
「…イザークへ、帰りたいか?…」
ホリンの問いは何故か、今までのどんな彼からも違う気がした。今までの彼のどんな声とも違っていた。
「帰りたくないと言えば嘘になる。でも今は…今はシグルド殿の為に剣を振るう」
「そうだな、お前はイザークの剣士だ」
それだけを言うとホリンはゆっくりと歩き始めた。アイラはわざと後ろに付いて、彼の影を追った。
広くて大きな背中。その両肩には自分の知らない、重い運命を背負っている。それが何なのか、アイラは知りたかった。
…彼の全てを、知りたかった……
ホリンの背中越しに見え隠れする太陽の日差しが、アイラの瞳を貫く。それはきらきら光って、とても綺麗だった。
「そろそろ戻らねばな。皆に報告せねば」
ホリンの言葉にアイラは答えようとして、その声を飲み込んだ。帰りたくなかった。出来るならば、このままでいたい。
このまま影を、自分だけがゆっくり追い駆けたい。誰にも邪魔されずに、そっと。そっと独りいじめしたい。それは小さな我が侭。
「…ホリン…」
「何だ?」
「…お前は何の為に剣を振るう?」
少しでも一緒にいたくて。少しでも同じ時間を過ごしたくて。先程の問いかけを先延ばしにした。…このくらいの我が侭…許してほしいな…。
「…俺か?俺は……」
不意にホリンは立ち止まり、アイラの法へと振り返った。アイラが見上げなければ、ホリンの顔を見る事は出来ない。その背の高さが少しだけ、アイラに遠く感じた。
「聴きたいか?」
「…教えて、くれるのか?…」
見上げようとして…そして出来なくて、アイラは俯いたまま尋ねる。そんなアイラの元へと静かにホリンの声が降りてきた。
真剣でそして何処か柔らかい声に、アイラの耳元が無意識に熱くなる。
「…お前が……」
そこまで言って止めたホリンの声に。その声に弾かれたようにアイラは顔を上げた。その先には痛いほど真剣な…ホリンの瞳。アイラの全身を貫こうとでも…言うような。
「シャナンの事を…いや…シャナンがお前なしでいられるようになったら…その時に言おう…」
「…ホリン?…」
「それまでお前が、その瞳を俺に見せてくれたら…」
それだけを言うとホリンは不意にアイラを抱きしめた。アイラに考える隙を与えずに。何も考える事が、出来ないように。
…力強く…そして何よりも、優しく……
「…俺はその時…全てを言おう……」
「…ホ…リン……」
それ以上アイラは言葉を紡ぐ事が出来なかった。ただ茫然とその瞳を見開くだけで。何も。何も、出来なかった。
「…戻るぞ、アイラ」
静かにその身体から腕を外すと、ホリンは再びアイラに背を向けて歩き出した。しばらくアイラはその背中を見つめていたが、我に返ると再び彼の後を追った。
…何が起こったのか…まだ頭がぼんやりとしている……
けれども夢じゃ、なかった。その広い腕が、優しい手が、この身体を抱きしめてくれたのは。嘘じゃ、なかった。
足元がふわりと宙に浮いたみたいで、何だか自分が歩いているような感じがしない。ただぼんやりとした感覚だけが頼りだった。
…彼は気付いていたのだろうか?この想いに。この気持ちに。だとしたら何時から?
取り止めの無い想いがアイラを纏い、放してはくれなかった。
けれども。けれども…彼は言った。その言葉の意味を噛み締める。
『今はシャナンの事だけを考えろ』
彼はそう言いたかったのだ。何よりも自分にそれを伝えたかったのだ。ならば自分はそうしよう。
彼が自分の為に言ってくれた、言葉なのだから。
でも、もしも。もしもシャナンが自分から離れる日が来たら。独りの『男』として生きてゆける日が来たら。その時は。
…その時はこの想いに、答えてくれるのだろうか?
…何時しかお前に真実を言う事が、出来るのだろうか?
どれだけ自分が、お前を愛しているのか。どれだけ大切に想っているのか。
幼い頃からずっと。ずっとお前だけを見てきた事を。お前だけを捜してきた事を。
どれだけ言葉にすれば、この想いは伝わるのだろうか?
…何も、望んではいない。
この身体が朽ち果てるまで、お前の盾になれれば。
この腕が無くなるまで、お前の剣になれれば。
この小さな命をこの手で護る事が、出来るのならば。
それだけで。それだけで、いいのだから。
『愛している』
何時かその言葉をお前に、告げられる日がくるのだろうか?
その時までお前は、俺にその瞳を向けてくれるだろうか?
…ふたりを縛る運命が、なくなるその日までに。