子守唄



その長い髪に指を絡めて眠る日が、ずっと続いてゆければと願った。


子供の頃の微かな記憶にあったのは、母親の柔らかい髪の感触と…そして歌声だった。中々寝つこうとしない自分の頭を撫でながら、歌ってくれた歌。もう歌詞すら覚えていないけれど、けれども『歌って』くれたことだけは憶えている。長い髪に指を絡めて、そして。そしてその歌を聴いて初めて自分が安心して眠れた事を。それは遠い、遠い、記憶だった。



手に入れたしあわせが、あまりにも暖かくやさしいものだから。だからずっと。ずっと、と願わずにはいられなかった。
「子供たちは寝たか?」
背後の声に振り返ればそこには穏やかな瞳と優しい笑顔があった。こうしてともにいるようになって、見つける事の出来た笑顔。ふとした瞬間に見せてくれるその、笑顔。
「…ああ…さっきまで泣いていたがな」
ベッドの上で寄り添うように眠る双子をアイラの隣に座ってホリンは見つめた。優しい、瞳。戦場では決して見せる事のない笑み。その笑みに自然とアイラの口許も綻んだ。

優しい時間、穏やかな時。この時間がずっと。ずっと続いてくれたならばと思う。

大きな手が、そっと子供たちの髪を撫でる。その指には無数の傷がある。そしてそれは戦場で戦い続ける以上、消える事はない。癒える事はない。それでも戦い続けるしかなかった。そうしなければならなかった。そうしなければ戦いを終わらせる事が出来ない。この子供たちの未来が、ない。
「無邪気だな…ずっとこんな寝顔をさせてあげられればいいな」
「…ホリン……」
「こうして剣を振るうのは、俺達で終わらせたいな」
ホリンの言葉にこくりと無言でアイラは頷いた。そうなって欲しいと願わずにはいられない。こんな風に日々血に塗れるのは、自分達だけでいい。自分達だけで、終わらせたい。
「ホリン、どうした?」
子供達の寝顔を見つめているアイラをホリンはそっと肩を抱き寄せた。その優しい力に身を任せながら、アイラは静かに目を閉じる。触れた個所のぬくもりの暖かさを感じたくて、目を閉じた。そんなアイラを見下ろしながら、ホリンはその髪をそっと撫でた。
「…アイラ…お前は暖かいな……」
「何を今更言っている?」
「そうだな、今更だな。でも言いたかった」
穏やかでそして幸せな時間。この時がずっと続いていけたらと。ずっと、続けばと願わずにはいられない。それはこの時が『ずっと』ではないと知っているから。これが今このひとときでしかないと知っているから。
「言いたかった、アイラ」
その言葉にアイラは瞼を開くと目の前の夫を見つめた。金色の綺麗な髪。それは黒い髪と黒い瞳を持つイザーク人には異質なものだった。でも彼は誰よりもイザーク人だという事をアイラは知っている。自らの剣に対する誇りと、そして戦う事への痛み。誰よりも自分に厳しい所が、誰よりもイザークの剣士だった。
「ならば私も、言う。誰よりもホリンのそばは…暖かい」
以前ならこんな言葉を告げる事すら出来なかった。でも今は少し照れながらも、言えるようになった。重なっている個所の暖かさと、そしてぬくもりが自然と言葉を零れさせるようになっていたから。以前なら素直になれず、言えなかった言葉が。
「…アイラ……」
優しい瞳。ずっとこの瞳をしていて欲しいと願いながら、アイラはそっと目を閉じ降りてくる唇を受け入れた。



ずっと優しい瞳を続けられるような世界が。そんな世界をこの手で。
この手で作れる事が出来たならば。どんなに血に塗れても、どんなに罪を犯しても。
貴方にとって優しい瞳が出来る世界が。子供達が無邪気に微笑える世界が。
そんな世界を未来に。未来に作る事が、出来たならばと。

積み上げてきた屍は、もう数え切れない。他人をどんな理由であろうとも殺めた事には変わりはない。それでも。それでも、願っている。戦いのない日々を、願っている。

血に塗れ、死臭の消えないこの手でも。
戦うしか出来ない自分でも。それ以外の方法を知らない自分でも。
それでも願わずにはいられない。何時か。
何時か全ての人がいがみ合う事無く、穏やかに笑える日々を。



「子供の頃を思い出した」
胸に少しずつ積もってゆく痛みは。自らの犯した事への戒めだった。
「…ホリン?……」
「眠れない夜母親が、髪を撫でてくれた事を」
自分達が奪った命の重みを忘れる事がないようにと。決して忘れないようにと。
「…髪を撫で歌ってくれた子守唄を…」
決して、決して、忘れないようにと。


「私は子守唄など、歌えないぞ…ホリン」


くすりとアイラは微笑うと、ゆっくりとホリンの髪を撫でた。子守唄は知らずとも、髪を撫でる事は出来る。こうして髪を、撫でる事は。
「お前は俺の母親じゃない」
ホリンの指がアイラの漆黒の髪に絡まる。癖のない細い髪。何時しか自然とこの指に馴染むようになった髪。自然とこの指が憶えた、髪の感触。
「お前は俺の妻だから」
その言葉にアイラはひどく子供のような笑みを見せた。今まで強く生きてきた彼女だから、強く生きざるおえなかった彼女だからこそ。こうして見せる子供のような笑みが、ひどくホリンには嬉しいものだった。
彼女が無邪気に、ただ無邪気に笑えていた時間はどれだけあったのだろうか?何も知らずにただの子供でいられた時間は。兄を失い故郷を失い幼いシャナンを連れて逃亡した日々。その中にあったものは、張り詰めた緊張と強く生きねばならなかった自分。幼いシャナンを抱え、自分の弱さや不安は見せられはしなかった。強くなければ、ならなかった。
「あまり、その…私を喜ばせるな…ホリン……」
だからこそ。だからこそ、こうして。こうして自分のそばにいる時は。こうして一緒にいる時は、素のままでいて欲しいと。強くなくていいと、子供でもいいと。
「本当の事だ、アイラ」
暖かい彼女の身体を抱き寄せて、その額にひとつホリンは唇を落とした。思いの全てを込めて、キスをした。



「…子守唄よりもこうして…こうしてお前の心臓の音を聴いていると…安心して眠れる……」



胸に顔を埋めるように目を閉じたホリンの髪を、アイラはそっと撫でる。飽きる事無く撫でる。この時間が永遠でない事が分かっているから。この時間がずっとでない事が分かっているから。だからこうして。こうして些細な事でも一瞬でも、大切に。この瞬間を何よりも大切に、過ごしたいと願う。



ささやかなしあわせが、一番大切な事だと気が付いたふたりだから。