セレナーデ



生まれて初めて怖いと思った。――――『死』というものに、恐怖を覚えた。


お前が微笑う。少しだけ不器用さを残しながら、それでもそっと微笑む。しあわせだと、そう。ただ一言、しあわせだと。ああ、俺も。俺も、しあわせだ。しあわせ、だ。


生まれて初めて自らの命を失うことに怯えた。死というものの恐怖を知った。それまではそれすらもまるで隣人のように、当たり前のようにそばに居たのに。死神と隣り合わせに生きてきてそれが日常になっていたのに、今はこんなにも。こんなにも怯えている。死ぬという恐怖に怯えている。
「―――あなたがっ……!」
それ以上の言葉を告げる事が出来ず喉の奥に呑み込んできつく唇を噛みしめるのを、ただ見つめる事しか出来なかった。今は何を告げても、きっと。きっとお前にとっては、ただの『言葉』にしかならないのだろう。
「…どうしてこんなに無茶をするのだ?…そう尋ねても無駄なのは分かる。ホリンの言う事は私には分かる…だが」
見上げてくる漆黒の瞳の激しさとその奥に見え隠れする揺らぎ、それに気付いたのは俺だった。この何よりも強く美しい女のその奥にある弱さを。それなのに俺はこうして。こうしてお前が必死になって隠し護ってきたものを剥き出しにしてしまうのか?
「だが、これだけは知っていてくれ…私は…私は…貴方の命が…何よりも大切だ…」
逸らさず真っ直ぐに見つめてくる瞳。その視線を逸らす事は俺には出来ない。だから、見つめる。その奥までも、どんな微かな揺らぎすらも見逃さないようにと。そして。
「…私は…ホリン…貴方が何よりも……」
そして、ついに堪え切れずに零れ落ちた雫を、そっと。そっと、この手で拭う事が今の俺にとってお前に出来る全てだった。この血塗れの傷だらけの手のひらで。


死ぬ事は怖くなかった。常に死と背中合わせの日常。戦場に立つ以上、それは当り前の事だった。何時死んでもおかしくない日常、そんな毎日の中で俺は生きてきた。そしてこれからもずっと。ずっと、そうして生きてゆくものだと思っていた。それなのに。

『―――ホリン…そばに居て欲しい…私は…』

永遠に手の届かない相手だと思っていた。もう二度と出逢う事のない相手だと思っていた。ただの傭兵として生きてゆく事を決めた俺にとって、故郷は何よりも遠い場所にあり、自らの存在はもうただの闘技場の一剣士でしかなくなっていた。そんな俺の前にお前が再び現れる事など、そんな甘い夢すら見られる程子供ではなかった。
けれどもお前は俺の前に現れた。あの頃の真っ直ぐな瞳のまま、あの頃よりもずっと綺麗になって。哀しい程、綺麗になって。
「―――アイラ……」
生きることなどとうに諦めていた。人並みの幸せなどそんな甘いものなどとっくの昔に捨ててきた筈なのに、お前はこの手を取る。血塗れのこの手を。
「俺は生まれて初めて怖いと思った」
涙を拭うこの手にお前の指がそっと絡まってくる。白い陶器のような指。同じように剣を振るい血の匂いを染み込ませてきたはずなのに、お前の手はずっと綺麗だった。どんなになっても、綺麗だ。
「…ホリン……」
「今までは何時死んでも構わないと思っていたのに…今は……」
絡まる指先がきつく結ばれる。そうだ、この手を。この手が離れる恐怖を俺は知ってしまった。このぬくもりがもしも消えてしまったならば、そんな恐怖を。
「…今は『死』に怯えている…もしお前を独りにしてしまったらと……」
「―――そうだ、ホリン。だから……」
絡めた指先がそっと解かれそのまま。そのまま両腕が背中に廻され抱きつかれた。きつく、抱きしめられた。そこから薫る微かな髪の薫りが、何時しか当たり前のように俺の日常に組み込まれた時、あんなにそばにあった死の匂いが遠くなった。あんなにもそばに在ったのに。
「だからもう二度とっ二度とこんな事はするなっ!!」
呑み込んだ感情が溢れてくるのが、痛いほどに伝わった。それが全身を駆け巡り、俺は自らの愚かさと無力さを知った。


―――あの時、初めて死ぬのが怖いと思った。お前を庇い、意識を失いかけたあの瞬間。あの瞬間、初めて『死』の恐怖に怯えた。


どんな時でも戦場の上では気丈なお前が。戦いの場では決して私情を挟むことなく、剣士とし王女として誇り高く生きてきたお前が。そんなお前が見せた一瞬の『揺らぎ』が。意識が途切れる前に見せた、あの瞳が。生まれて初めて俺は。俺は、死ぬことに怯えた。

お前の強さの中に秘められた、必死に奥に隠してきた『弱さ』を知っているのは俺だけで。

シャナンを護る為に強く在らねばと、生きるために誰よりも強くあらねばと。そうやって生きてきたお前の一番奥にあるその心を気付いてやれたのは俺だけなのに、それなのにもし。もし、俺がお前のそばにいてやれなくなってしまったら?俺が、お前のそばに。


濡れた瞳が見上げてくる。そこにある弱さを知っているのは俺だけで。この涙を拭えるのも、俺だけで。そうだ、俺の手は人を殺すためだけじゃない。
「…すまん…アイラ……」
「…ホリン……」
こうして。こうして愛する者の涙を拭う事が出来る。こうして愛する者を抱きしめる事が出来る。こうしてお前を。


――――お前を愛する事で知った。俺はこんなにもちっぽけな人間だと。けれどもそれは俺がずっと願っていたものだった。そんな当たり前で平凡で、けれども愛するという意味を知っていると胸を張って生きてゆきたいと。


「…そして…ありがとう…俺と同じ想いで…いてくれて……」


俺の言葉にお前はひとつ、微笑った。そんな事今頃気付いたのかと。そして、告げる。死ぬ時は一緒だと。どんなになってもこの手を離さないと、そう。そう、告げる。ああ、一緒だ。死ぬ時は一緒だ。この指を絡めながら、共に死を迎えよう。そうすればきっと。きっと何も怖くはない。お前を独りにしてしまう事も、お前が死の恐怖に怯える事もさせない。どんなになっても、俺はこの手を離しはしないから。
「しあわせだ、私は。きっとどんな女よりもしあわせだ」
微笑うお前が、何よりも綺麗で。ただ綺麗で。それはきっと。きっとどんな事よりも幸せだ。俺にとっての、しあわせだ。


「――――ああ、俺も。俺もだ…アイラ………」