綺麗な瞳のひと、だった。
何時も何処か淋しげに微笑う、ひとだった。
幸せでそして満たされていながらも。
何処か、何処か哀しげに。
…儚げに微笑うひと、だった……。
『どうしたら本当に微笑って、くれるの?』
子供の頃単純に思ったその疑問は、何時しか私の心を捕らえて。捕らえてそして、離さなくなっていた。
まるで無数の細い糸のように私の身体に絡み付いたまま、そのままずっと離れない。
離れないままずっと、こうやって私の身体を、心を切り刻んでゆく。
切り刻んで、そして。そして無意識に私を傷つけていった。一番脆くそして弱い部分を。
―――気付かないうちに、傷つけていた。
「…ユリア…と、申します……」
その少女は戸惑いながら、ぽつりと自分の名を言った。まるで消え入りそうな声で。そしてはにかむように、微笑った。
私は知っている。その笑顔を。その消え入りそうで儚い笑みを、知っている。
けれども私は否定した。いや、否定したかったのは自分の心なのかもしれない。そうやって、自らを護る事しか…今の私には出来なかったから。
「―――シャナンだ…イザークのシャナン…」
「シャナン様…ですね…」
見上げてくる瞳の壊れそうな色彩を。けれどもその奥に宿る強さを。その強さが私を傷つけた。自分でも、気付かない間に。
…護り切れなかった…その強さを……。
夢を、見る。
未だに見続けるその、夢。
綺麗な穢したくない程の綺麗な夢。
そして、壊れる夢。
誰の手にも触れて欲しくないきらきらとしてものが一瞬に壊れさる夢。
硝子が粉々に砕けるように。絵の具が塗りたくられるように。
いとも簡単に、壊れる夢。
『シャナン、この子を護ってね』
春の木漏れ日のように優しい、瞳。そして何処か翳る哀しげな、瞳。私は幼い頃からずっと。ずっとこの瞳が笑ってくれればと思っていた。
―――笑ったらきっと、きっともっと綺麗なのにと。
『…護ってね…セリスを……』
私はわざと嫌がってみた。子供のように。実際に子供だったのだけれども。そうしたら少しは気が紛れてくれるかなと、思ったから。けれどもまだ瞳は哀しそうだったから。哀しそうだったから、私はこくりと頷いた。そうしたら安心して本当の笑顔を見せてくれるのではないかと、そう思って。だから私はわざと大きな声を上げて答えるのだ。
『ありがとう、シャナン』
…笑ってくれたけれど……やっぱり瞳は淋しそうで。哀しそうで。私はどうしたらいいのか分からなかった。どうしたら、いいのか。
そして、そして瞼の裏にその笑顔がこびり付いた瞬間に、何もかもが壊れるのだ。
何もかもがなくなるのだ。
『どうしたら、微笑ってくれるの?』
何度も声にしようとして。
そして口の中に消えて行った言葉。
その言葉を再び。
再び口に昇らせることはあるのだろうか?
「ユリアはどんな花が好きなの?」
何時ものように剣の稽古を終えて戻った先に、セリスと…彼女、ユリアがいた。
「花ですか?」
あの日以来私はひどく彼女が苦手になっていた。どうしても。どうしても彼女の瞳を見ているとひどく苦しくなる。小さな無数の針が心臓を突き刺すような、そんな。そんな感覚に捕らわれる。
「うん、…女の子は…そう言うのが好きだって聞いたから」
子供同士の会話のようで、そしてそこには甘酸っぱい想いも含まれているようだった。自分の年になるともう何処かに置き去りにしてしまった初恋の甘さと切なさ。そんなものがセリスの言葉には含まれているようで。そして。
「くすくす、セリス様ったら」
そして、それに答えるユリアは…微笑った……。
それは儚い笑みでも、哀しい笑みでもなく。ただ純粋な、純粋な少女の笑顔。綺麗な、笑顔。綺麗過ぎる、笑顔。それは。
―――それは私が、見たかった…もの……
笑ったら。本当の笑顔で笑ったら。
綺麗なのに。凄く綺麗なのに。
どうして?どうして笑ってくれないの?
…ボクガ…ワラワセテ…アゲタイ……
「小さな花が好きです。今にも風に飛ばされてしまいそうな程の小さな花が。それでも健気に咲き続ける花が」
「…君みたいだね、ユリア……」
「……セリス様………」
みつめあって微笑み合うふたり。子供のような無邪気さを残しながら。
けれども。けれどもそれがひどく私には苦しく思えた。
―――何故?
そう問い掛けても答えなんて出る筈もなくただ。
ただ思い出されるのは、繰り返される夢だけ。
夢の中で儚く微笑むあの瞳だけ。
―――儚く微笑む、あのひとだけ。
そしてその夜また私はあの夢を見る。
繰り返し見続けるあの夢を。
けれども夢の中のあのひとは。
あのひとは、微笑っていた。
少女のように、綺麗に。
何よりも綺麗に、微笑っていた。
―――それはずっと、私が見たかったもの……
ひどくすっきりとした朝だった。目覚めた瞬間、頭の中に掛かっていた何かが消え去ったようなそんな目覚めだった。
「…夢の、せいか?……」
時々私を苦しめるあの夢の人は何故か微笑っていた。それは私がずっと望んでいたものだった。叶えられることがないと、絶対に叶えられないと分かっていたけれども。
それでも夢の中のあのひとは『本当』に微笑っていた。ずっと自分が見たいと思ったもの。
それはずっと。ずっと自分が望んでいたもの。
私は寝室から起き上がると素早く着替え、この静寂な時間が冷めないうちに外へと出た。何故か今は誰にも邪魔されずに、静かな時間に包まれていたかった。
小さな花が、咲いていた。
焼け爛れ萌える緑も鳥達の歌声もなくなったこの大地に。
忘れ去られたように。けれども強く。
強く小さな花が一輪、咲いていた。
その花に手を伸ばそうとして、そして止めた。
今この花を手折ってしまったならば、また。
また何か自分は大切なものを失うような気がして。
だから、だから風に揺られそれでも咲き続ける花を。
私はその手の中に入れる事を止めた。その瞬間―――
「……シャナン…様?……」
少しだけ驚いたような、そして戸惑いがちな声に振り返る。そこには。そこには夢の中と同じ瞳を持った少女が立っていた。
「ユリアか、どうしたこんなに朝早く?」
―――同じ、瞳。同じ、笑顔。ああ、そうか。その時になって私はある事に気が付いた。それを確証するものは何一つないけれども。それでも私は、思った。
「シャナン様こそ…」
「朝早く目覚めたから散歩にでもと思って、な。それよりもユリアは?」
…この少女は…彼女は…あのひとの……
「あの…その花に…水を……」
恥じらいながら、閉ざされる長い睫毛。そこから朝の光りが零れてゆく。睫毛の先から、零れてゆく。
「ああ、これか。これはユリアの花だったんだな」
光りが、零れてゆく。それを私は純粋に綺麗だと思った。綺麗だ、と。
「…私のだなんて…そんな事…ありません……」
その想いには何も存在しなかった。あのひとへの気持ちも。見たかった笑顔も何もかも。何もかもが、消え去った。そして。
「いやお前が育てているからお前の花だ。ありがとう」
そして残ったものはただ『綺麗』だという想い。目の前の少女が綺麗だと言う、それだけの想い。
「―――え?」
それだけが。それだけが今の私を支配した。それだけが私の中に浸透してゆく。
「ありがとう、ユリア。この大地に花を育ててくれて」
「…そんな…私は……」
「お前の優しい心が、きっとこの花にも伝わっているよ」
「…シャナン様……」
「だからお前みたいに、健気に咲いているのだな」
「―――この花は、お前なんだな……」
何か言葉にしようとして。その唇は閉ざされる。そしてその代わりにゆっくりと瞼は開かれ、そこには柔らかな瞳が現われる。それは。それは私が夢の中で見続けた色と同じで、そして違うものだった。
――――違う瞳、だった。
「……シャナン様………」
違う、これは今目の前の『彼女』の瞳だ。他の誰でもない彼女だけが持つ瞳。綺麗で儚くてそれでも強い、たったひとり彼女だけの瞳。
「ユリアは小さな花が好きなのだろう?」
「…あ…聴いて…いたのですか?…」
「偶然だけどな。そうかこの花の事だったのだな」
小さく、けれどもこくりと頷く彼女に。そんな彼女の髪に私はそっと触れた。触れた瞬間一瞬ぴくりと彼女の身体が震えたが、けれどもそのまま動かずに彼女は私を見つめた。
あのひとと同じだけど違う瞳で、私を見つめた。
「じゃあ私もこの花を大切にしよう」
「……あ、あの………」
「大事にしよう」
その言葉をどう取ったのか、彼女は初めて微笑った。それは今まで見せていた哀しげな笑みともセリスに向けていた少女のような笑みとも違う。どの笑みとも違うものだった。
――誰にも見せたことのない…そんな笑み…だった。
その瞬間、私の中にあった何かがゆっくりと消えて行った。
それが何だったのかは今でも言葉にすることが出来ない。
ただひどく優しく、そして甘く切ない想いが。
夢の中のあのひとと同時に、そっと。
―――そっと消えていった。
「明日もこの花を見に来てもいいか?」
「…はい…見に来て…ください…」
「…シャナン様と…見たいです……」
そして何かが私のここに生まれる。
それが何なのか、私には分からなかったけれども。
ただ暖かく優しく、そして。
そして愛しい何かが今。
今私のこころの中に、芽生えるのを止める事が出来なかった。
―――さよなら。
さよなら、私の初恋。
子供だった。子供だからこそ見られた。
傷つきやすくてそして脆いこの想い。
夢の中だけで生きていたその想い。
さようなら。自分の中だけで生き続けた。
自分の後悔と懺悔だけで生き続けられた、ひと。
さようなら、私の夢の中で作り上げた綺麗で哀しいひと。
――――そして私はその日以来夢を見る事がなくなった。