薬指
薬指に結ばれた見えない糸がふたりを絡めて、永遠に離さなければいいなと願った。離さないでと、祈った。
見かけよりもずっと長い睫毛が閉じられてゆく瞬間をただずっと。ずっと、見ていた。空から零れ落ちる月の光が、そっと睫毛を照らしてゆくまで。
「―――君が……」
その先の言葉を聴く前に手を伸ばした。伸ばして指先で唇に触れる。それだけでどうしようもない程の切なさが胸に広がった。
「…スカサハ…私は……」
見上げて、見つめる。真っ直ぐにその瞳を。そこにある漆黒の瞳が泣きたいくらいに優しかったから、だから。
「…私は貴方が好きです…本当に…好きです……」
もう何も怖くないと思った。これからどんな事があっても生きてゆけると思った。
恋をする事は罪なのだと気付いたのは、セリス様の頭上に王冠が掲げられたその瞬間だった。グランベルの王として生きるという意味に気付いたその時、全てを理解した。私は恋をしてはいけない、誰かを愛してはいけない、この血を継ぐ子供を産む事は許されないのだと。
――――それでも恋をした。ただひとつの恋をした。
罪を償うために生きてゆこう、この大地を護る為に生きてゆこう。もう二度と争い事が起きないようにと。その為には余計な火種を作る事は許されない。頭上に王冠が掲げられる存在は世界中でただ一人いればいい。一人でなければならない。この聖なる血を受け継いでゆく血筋は一つで、いい。それでも。それ、でも。
触れたいと願い、触れて欲しいと祈る。けれどもそれは許されなくて。赦されはしない。それでも止められない想いがある。止められない気持がある。
「俺も好きだ、ユリア。君が好きだ」
伸ばした手が、重なる。その大きな手のひらに包まれる。それは何よりもどんな事よりもしあわせだった。しあわせだから。
「…はい、スカサハ…嬉しいです…本当に私は……」
俯く私に戸惑いながら、けれども誰よりも優しい瞳で視線を合わせてくれた人。不器用な言葉で、何時も私を励ましてくれた人。気付けば何時もそばにいてくれた人。誰よりも私の近くにいてくれた人。
「貴方に出逢えてよかった」
こんな風に微笑えるようになったのは全部貴方がいたから。貴方がいるから。――-ごめんなさい、私は。私は兄であるセリス様よりも、何よりもこの人が大切なんです。大事なんです。何よりも誰よりも、今このぬくもりを私にくれるこのひとが。
「だから大丈夫です。貴方がシャナン様とともにイザークへ戻っても…もう二度と逢えなくても大丈夫です」
「―――!駄目だっ!!それはっ!!」
結ばれていた指先が剥がれて強く肩を掴まれる。その衝撃にびくんっと肩を震わせれば、貴方かはっとしたように手を離すと、そのまま。そのまま抱きしめられた。きつく、抱きしめられた。
「…スカ…サハ?……」
「それは駄目だ。絶対に駄目だ。どんな理由であろうとも君が…君が犠牲になる事は絶対に…っ」
抱きしめる腕の強さが苦しくて、苦しくて、嬉しかった。どうしようもない程に嬉しい。どんな時でも穏やかな貴方が見せてくれた激情に。そしてその感情を向けてくれる相手が他でもない自分自身だという事に。その事が私はどうしようもない程嬉しくて。
「それに…俺が…俺が君に逢えないなんて…きっと…違う…そうじゃなくて…その絶対に…耐えられない……」
語尾が小さくなって何時もの穏やかな貴方に戻ってゆく。けれども、もう。もう私は戻れなかった。戻る事が出来ない。――――この想いを止める事が出来ない。
「…私も……」
「―――ユリア?」
止められない。止める事なんて出来ない。どんなになろうとも私は貴方を好きでいる。きっとずっと好きでいる。それは貴方を好きだと気付いた瞬間、気がついた。このひとを好きだと理解した瞬間に、諦めた。気持ちを止める事を、諦めた。どうやっても、どうしても出来ないだろうから。
――――誰かを好きになる事は許されない。誰かと結ばれる事は赦されない。けれども、それでも。
溢れてくる想いは途切れることなく、無限に注がれてゆく。溺れるほどに私の中に。注がれ溢れて零れてゆく。
「…私もずっと…ずっと貴方といたい…っ……」
何もいらない。何も欲しくない。貴方がいれば。貴方さえいてくれれば私は何も望まない。頭上の王冠も、誰もがうらやむ地位も。何も、何もいらない。
「…ずっとずっと貴方と…貴方といたい…だって私は…」
本当に他に何も望まないから。だからお願いです、このひとを。このひとを私にください。何よりも不器用で優しいこの人のそばにいさせてください。それだけで、それだけでいいから。
「…私は…貴方が好きだからっ…貴方だけが好きだからっ!貴方だけが欲しいからっ!」
自分でも驚くほどの声が出ていた。こんな風に声を上げて、こんな風に声を張り上げて『欲しい』と告げる自分を浅ましいと思った。けれども生まれて初めてだった。初めて自分から『欲しい』と告げた。欲しいと、声に出した。
「うん、俺も。俺も君だけが欲しいよ。君だけが…ユリア……」
好きです、好きです、好きです。もう私はそれ以外の言葉を紡ぐ事が出来なかった。それ以外の言葉が浮かんでこなかった。瞼の裏から夢の先から、ただ零れる想いはただひとつ。ただひとつ貴方を好きだという事だけ。それだけだった。それしかなかった。
見つめて、見つめあって。指を絡めて、絡めあって。そして触れる。そっと触れる。髪に頬に額に、そして唇に。
「――――俺が君を護るから。どんなになっても護るから。この想いが許されないというならば、全部。全部俺が罪を背負うから。だから、ユリア…そばにいてくれ……」
恋する事が罪ならば、ひとを愛するという事が罪ならば、それでも構わない。もう構わない。だって貴方を失うこと以上に怖いものなんて何もないのだから。この手を離す事よりも怖いものなんて何もないのだから。
「…はい…スカサハ…そばに…ずっと貴方のそばに……」
指を絡める。そっと、絡める。薬指を絡める。そこにふたりで見えない糸を結んだ。想いという名の、愛という名の見えない糸を結ぶ。決して解けないようにと強く。永遠に解かれるようがないようにと、きつく。
――――誰の目にも触れる事がなくても、誰にも気づかれる事がなくても。