スフィアの羽



―――――君がそっと。そっと微笑った瞬間。多分その瞬間に俺は君に恋をしたんだ。


何時も俯き加減で何処か淋しそうだったから、ずっと思っていた―――笑ったら、きっと。きっともっとずっと綺麗なのだろうと。
「スカサハ、君にユリアの護衛を頼む。本来なら僕が側にいるべきなのだろうけど、そういう訳にもいかないから」
セリス様の隣で俯き加減に黙っている彼女を、正直初めは苦手だった。いや苦手というよりもどうしていいのか分からなかった。俺の廻りには全くいなかったタイプの女の子だったからどんな風に会話をすればいいのか、どう接すればいいのか分からなくて。
「あ、はい…セリス様の頼みなら…こんな俺でよかったら…」
だからきっとそんな俺の気持ちを彼女は察したのだろう。少しだけ顔を上げて、淋しそうに俺を見つめる。そして。
「…その…よろしく…お願いします…スカサハ…」
そして伏し目がちに告げた言葉が何処か戸惑っているようで、俺は必死になって否定した。そんなつもりはないのだと、決して困っている訳ではないと―――違う、困っているのは本当だけど、迷惑とかそんな事ではなくて、俺は。俺は…
「違うんだ、ユリア…その迷惑とかそんなんじゃなくて…その俺なんかでちゃんと勤まるだろうかとか…その…あ、俺何言って……」
自分でも何を言っているのか分からなくなって、どうしていいのか分からなくなって、どうしようと思って君を見たら…君を、見たら。
「…はい…スカサハ…これからよろしくお願いしますね」
そっと、微笑ったから。真っ直ぐに俺を見上げて、微笑んだから。それは何処か子供のような無邪気な笑みで。そして何よりも、綺麗だったから。―――きれい、だったから。
「…ああ、…よろしく…ユリア……」
差し出された手のひらを握り返した。その指の細さに驚かされながら、その白さに戸惑いながら。それでも暖かなぬくもりが指先に伝わってきたから。暖かい命のぬくもりが、この指先に。
「…よろしくお願いします……」
もう一度そっとその顔を見つめたら、真っ直ぐに視線が返ってきた。それは俺が初めて見た君の表情で、そして。そして初めてふたりが互いに向き合った瞬間だった。


――――あの日、恋をした。君に恋をした。ただひとつの恋を。


目覚めた瞬間は、真っ白な闇だった。何処までも真っ白で何もなくて、ただぽつんと私という存在が在っただけだった。何も思い出せず、何も分からない。そんな私を助けてくれたのがレヴィン様だった。そんなレヴィン様に導かれセリス様に出逢った。その瞬間真っ白だった世界に初めて色彩が付いた。けれども。
「最近良く笑うようになったね」
けれども、何処か淋しかった。セリス様は優しくて何時もそばにいてくれた。他の廻りの人たちも優しくて、本当に優しかったのに。けれども私だけ何処か別の場所に立っているようで、まだ独りでぽつんと立っているようで。
「…そうですか?…いえ…そうかもしれません……」
そんな私の前に真っ直ぐに立ってくれた人がいた。真っ直ぐに私を見つめてくれた人がいた。戸惑う私に不器用だけど懸命に手を差し出してくれた人がいる。その瞬間、私は淋しくなくなった。
「―――スカサハのせい?」
「…あ、その…それは……」
「ははは、図星だね。ユリア顔が真っ赤だよ。でも良かった…ユリアが嬉しいと僕も嬉しい」
「…セリス様……」
「何でだろうね。僕自身もよく分からないのだけど…君には誰よりも幸せになって欲しいんだ。そしてずっと微笑っていて欲しい」
セリス様は優しくて、私が望む言葉以上のものを与えてくれる。たくさんの光を与えてくれる。けれども私はそれ以上に。
「…私も…セリス様のしあわせが一番の望みです……」
それ以上に不器用でも懸命に護ってくれる貴方の腕が欲しい。綺麗な言葉でなくていい、望む言葉でなくてもいい、貴方がくれる不器用な言葉が欲しい。
「でも一緒に幸せになりたいのはスカサハなんだろう?」
「…あ、…それは…その……」
「いいんだよ、ユリア。正直になりなよ。僕は本当に君の幸せを誰よりも願っているんだから」
今思えば、もしかしたら何処かで気付いていたのかもしれない。何も知らない筈なのに何処かで、私達は誰よりも一番近い場所にいたのだと。だから恋にはならなかったのだと。


――――あの日恋をした。ただひとつの恋を。あなたを好きになって、初めて知ったただひとつの恋。


隣で微笑ってくれるだけでいい。それだけでいい。君が誰を思っていても、君が誰を好きでも、俺は。俺はこうして君が微笑っていてくれれば。
「…スカサハ…これは……」
驚いたように見開かれた瞳に無意識に口が綻んだ。何時しかこんな風に君は俺にたくさんの表情を見せてくれるようになった。たくさんの顔を。淋しげな顔だけじゃない、色々な表情を。
「さっき向こうの丘で見つけたんだ。イザークじゃこんな花はなかったから珍しくて…って俺が花なんてガラじゃないか」
俺は自分でも不器用な男だと思う。ラクチェにもよく言われている――本当に鈍感で、ぼーっとしてるんだから、と。実際その通りだった。どうやったら女の子が喜ぶかなんて全然分からないし、自分が他人にどう思われているのかも良く分からない。だから正直君が何をすれば喜んでくれるのかも…本当に分からない。
俺がこうやって綺麗だと見かけた花を君も綺麗だと思ってくれるのかは分からないし、こんな花を喜んでくれるかどうかも分からない。でも俺は君にあげたいと思った。綺麗な花だったから、君にあげたいと。
「…いいえ、そんな事ないです…その…嬉しいです……」
そんな俺に君は真っ直ぐに見つめて言ってくれる。その言葉に嘘はないという事だけは、鈍感な俺でも分かった。分かったから。
「…嬉しいです…スカサハ…本当に…ありがとう」


だって君が微笑ったから。何よりも綺麗な顔で、何よりも嬉しそうに微笑ってくれたから。


その笑顔をずっと。ずっと見ていたくて。俺は本当にそれだけで良かった。俺はセリス様みたいに君の望む言葉をあげられないけれど。それでもこうして少しでも君を微笑わせる事が出来たならば、それだけでいいんだ。
「…ありがとう…スカサハ………き…………」
「ん?」
聴きとれなくてもう一度聴き返したら、君は俯いて黙ってしまった。何か君にしてしまったのではないかと慌ててその顔を覗きこんだら、君が微笑って。――-ほほえんで。


「……だいすき……スカサハ………」


「…え?…え?ええ?……」
信じられない言葉にその顔を見返せば君は耳まで真っ赤にしていて。
「…その…本当です…私……」
真っ赤にしながら告げてくれる言葉に俺は信じられなくて。けれども。
「…だって…ユリアはセリス様が……」
けれども俺の言葉に強く首を横に振って否定するから。だから。
「…セリス様は大切な人です…でも…好きなのは…恋をしているのは……」
だから、俺は。俺はその言葉を信じた。信じられないけど、信じた。
「…スカサハ…です…あなただけ…です……」


「――――俺も…俺も…君が好きだ…ユリア…君だけが……」


戸惑いながら腕を背中に伸ばせば、君の方から俺の腕の中に飛び込んできた。だからそっと。そっと抱きしめた。壊さないように、そっと。
「…スカサハの腕…震えています……」
「…ごめん…俺…こういうの…慣れてなくて……」
情けない程に手が震えている。けれどもそんな俺に君が微笑う。頬を赤らめながら、君は言う。
「…私も…震えています…同じです…一緒、です……」
「―――本当だ…ユリアも…一緒だね……」
「…一緒です…私達……」
君の言葉に不思議と腕の震えが収まった。収まったと同時にどうしようもない愛しさが込み上げてくる。この腕の中のぬくもりに、その命の暖かさに。そして。そして何よりも大切なものなのだと。何よりも大切なひとなのだと。
「…一緒だね…ユリア……」
微かに目を潤ませて見上げてくる君にそっとキスをした。それは不器用だけど一生懸命なキスだった。――――大切なキス、だった。