一度だけ、その手を離した。ただ一度、だけ。
冷たい指先だったけれど。けれども、好きだった。大好きだった。
ぬくもりも、暖かさも、その指先には感じられなかったけれど。
けれども、大好きなの。貴方の指だから、大好きなの。
何もいらない。何も欲しくない―――と、口から零れる言葉は気持ちとは裏腹で。
諦める事が、私にとって唯一の自分を護る方法だった。自分自身を傷つけるものから、護る唯一の手段だった。何も望まなければ、裏切られる事はない。何も願わなければ絶望を感じる事はない。何も欲しがらなければ…失うものはないからと。
だから願わない。だから望まない。だから希望など持たない。そうすれば、私は何も。何も傷つく事も怯える事もないのだから。
「―――イシュタル、遊ぼう。寒いから、いっぱい暖かい血を溢れさせよう」
無邪気に微笑う貴方は子供のよう。本当に純粋な子供のよう。そんな顔で、そんな無邪気な顔で。貴方は簡単に残酷な遊びを提案する。
「はい、ユリウス様」
それでも私はその伸ばされた手に触れる。冷たい指先に触れる。ぬくもりも暖かさも、何もない。ただひんやりと冷たい手。でもそれが貴方の手ならば。貴方の手、だから。
「貴方がそれを望むならば」
心が空っぽならば、良かった。そうすればこんな矛盾に悩まされる事もないのだから。こんな痛みを感じる事もないのだから。
貴方を、愛している。貴方だけが、好き。
その気持ちだけで生きたかった。その想いだけで、生きたい。
けれども私の胸は抉られてゆく。私の胸は痛んでゆく。
罪のない子供を連れ去り、泣き叫ぶ母親を殺して。
そして積み重ねられる屍と血を、冷めた瞳で見下ろして。
――――私は貴方を、愛している。貴方だけを、愛している。
何も望まず、何も願わず、何も要らないと。そう思ってここまで来たのに。
私は望んでしまった。私はこの手を望んでしまった。ぬくもりも、暖かさもない、この手を。
要らない力だった。自分自身ですら持て余すこの力など、欲しくはなかった。この血も望みはしなかった。戦いの中に生きたいと思ったことも、権力争いの中にいたいと思ったこともなかった。何も持たずに、何の力もない、ただの平凡な女になりかたった。けれども。
「いいね、血は。血はとても暖かい。暖かくて心地良い」
けれどもそれを持っていなければ、私は貴方の隣りには立てなかった。貴方のそばにはいられなかった。あれだけ要らないと思っていたものなのに、今こうして。こうして貴方の手に指を絡めてしまえば…その思いすらも砕けてしまう。
「君の手よりも、暖かい」
優しい笑顔。子供の笑顔。私に無邪気な笑顔を向けてくれた相手は貴方だけだった。誰もが恐れる雷神を、貴方だけが平凡なただの女として扱ってくれた。
「…ユリウス様……」
矛盾している。矛盾、している。それでも止められない。この想いを、止める事は出来ない。もう私の世界に貴方がいない事が、考えられないから。
「でも、君の手がいい。君は…僕を抱きしめてくれるから」
血塗れの指を絡めて、そして貴方を抱きしめる。母親のように、抱きしめる。この瞬間に見せる貴方の無邪気な笑顔だけは、本物だった。それは悪魔でも獣でもなく、本当に小さな子供の顔だった。
――――何も望みません。何も、要りません…貴方がこうしていてくださるならば……
本当にそれだけならば。それだけだったならば。
どうして私は人なのだろう。どうしてただの女になれないのだろう。
ただの愛しか知らない女になれたならば、私は。私はこんな想いを抱かえる事もなかったのに。
ただの貴方を愛する事しか出来ない女だったならば。それ以外のものを。
それ以外のものを、何一つ持っていない女だったならば。
この手だけを信じて生きられれば、良かった。この手だけが全てならば、良かった。
触れてくる唇は、優しい。口付けは、泣きたくなるくらいに優しい。
「…イシュタル…君だけは、ずっと…ずっと僕のそばに……」
抱きしめる腕も、髪を撫でる指先も。その全てが優しくて、苦しい。
「…君だけはずっと、僕のそばにいてね……」
ああ、どうして。どうして、それを私に貴方は与えてくれるのか。
貴方が本当に残酷なだけの支配者ならば、私はこの糸から逃れられる事が出来るのに。
視界に広がる紅い色。貴方の髪と、瞳。そして一面に散らばった血。この生暖かさが、生臭さが、私を絡め取ってゆく。逃れたいと思いながらも、捕われたいと願わずにはいられないその紅が。その紅が、私を壊してゆく。内側から、壊してゆく。
「―――そばにいます、ユリウス様。私だけは、ずっと……」
綺麗で純粋な貴方の子供の心が。透明なその心が、残酷だった。純粋ゆえの残酷さだった。綺麗過ぎたから、貴方の心が綺麗過ぎたから、抗う事無く闇に染まってゆく。簡単に、染まってゆく。
「…私だけは…ずっと……」
けれどもそんな事はこの大きな歴史の流れでは些細な事で、そしてとてもちっぽけな事で。貴方は悪でしかないと、世界は決めるだろう。運命がそう決めるのだろう。どんなに今、腕の中にいる貴方の笑顔が純粋であろうとも。
そして、運命は。そして、歴史は。私達を分かりやすい悪として表舞台に立たせて。
誰にでも分かるような正義に、誰にでも分かるような悪として。私は滅ぼされてゆく。
けれどもそれが。それが、私が犯してきた罪を償える唯一の方法だった。
―――そして、私は一度だけ。
一度だけ、手を離した。私は貴方の手を、離した。
ただ一度、だけ。この死の瞬間に。私が死ぬ、この瞬間に。