風の瞳



小さな、女の子だった。
何時も俺とマーニャの後を付いている、小さな女の子。
そしてすぐ転んでは泣き出してしまう。
―――そんな、女の子。

見上げた先にあったのは、優しい風と蒼い空でした。

お前が泣くのは、見たくなかった。
「…フュリー……」
俺の後を懸命に付いてきた幼い女の子は、今こうしてあの頃のように泣いている。ただあの頃とはもう背の高さが違う、指の形が違う。そして。
―――そしてお前は声を上げて泣かなくなった…。
「…フュリー…」
その震える肩を抱き寄せて、そして抱きしめたいと思った。それはあの頃の気持ちとは明らかに別なものだった。ただ泣くのを宥めたかったあの頃とは、違う。
「…ごめんなさい…レヴィン様…ごめんなさい……」
肩から零れる長い髪。ふわりと風に揺れて、そこから空の匂いがした。何時も空に居るお前は、もしかしたら俺よりも空に近い存在なのかもしれない。俺よりも…風になっているのかも…しれない……。
「…ごめんなさい…レヴィン様の方が…きっと…きっと辛いのに…ごめんなさい……」
声を殺して、それでも零れ続ける涙。綺麗な、涙。お前の流す涙は純粋過ぎて俺を傷つける。その涙をどうにもしてやれない無力な自分を思い知らされて。
「――いや…フュリーお前の方が…ずっと…マーニャはお前の姉さんだろう?…」
「……でも…レヴィン様はお姉さんを………」
そこまで言い掛けて、お前の唇は止まった。その先の事実をお前は否定したかったのか?それとも俺に気を使ったのか?でもどちらにしてもその言葉の先は間違っている。
―――間違って、いる。だって俺はお前を……
「…ごめんなさい…レヴィン様……ごめんなさい……」
それでもお前はやっぱり、謝るんだな…俺の方が悪いのに……。

何時も風とともにいるひとだから。
誰よりも風に愛された、王子様。
優しい、風に。暖かい、風に。
だから私は貴方を護りたかった。
けれども私の手は小さくて、そして私の心は弱かった。
何時も貴方と姉の背中ばかりを追いかけて。
何時しかその背中が見えなくなると不安になって。
不安になって泣いてしまう。
そんな弱いちっぽけな女の子だった。
だから強くなりたかった。
どんな事があっても泣いたりしない。そして負けたりしない。
強い女に。…姉のように……。
姉のように強くなって貴方を護りたかった。
けれども同じ道を目指しても姉の背中はどんどん遠ざかるばかりで。
そして永遠に。
…永遠に届かないひとになってしまった……

泣くなと、言葉にしてもお前の涙を止める事は出来ない。

「フュリーごめん」
ぽつりと呟いた貴方の言葉は、けれどもその呟き以上に重たい言葉だった。その響きに含まれているのは、深い後悔とそして哀しみ。泣かない分本当は…貴方の方がきっと、辛い。
「…謝らないでください…レヴィン様…レヴィン様が…悪い訳じゃないですから…」
哀しい、貴方の風が。貴方を取り巻く風が泣いている。哀しい歌を歌っている。それでも私を慰めようとしてくれる…優しい…王子様…風の、王子様。
「いや俺のせいだ…俺が我が侭だったばっかりに結局はマーニャを死なせてしまった…俺の代わりに…死なせてしまったんだ…」
「…レヴィン様……」
どうして私経ちはこんなにも無力なのだろうか?ただ思っている事はただひとつ『愛するひとを護りたい』それだけなのに。どうしてそれだけが上手くいかないのですか?
私はレヴィン様を…お姉さんを護りたかった…レヴィン様は…お姉さんを…ラーナ様を護りたかった…お姉さんはラーナ様を…レヴィン様を護りたかった……。
ただそれだけだったのに。それだけなのに、こんなにも皆を傷つける。
「レヴィン様のせいじゃありません…姉は…姉はレヴィン様を護る為に強くなるって言ってました…だから…だから幸せだと思います…」
「フュリー」
「愛するラーナ様を…そしてレヴィン様を護る事が出来て…幸せだったと思います」
笑って、みた。少しでも貴方のこころが軽くなればいいなと思って。私の力ではどうにもならないと分かっていても。それでもこころの負担が少しでも軽くなればいいなと、そう思って。少しぎこちなさは消えなかったけれども。それでも一生懸命に、笑ってみた。
「幸せだったと、思います」
―――それでも瞳から零れる涙は、止める事が出来なくて……。

笑いながら、泣くお前。
俺の為に。俺の為に懸命に笑うお前。
細い肩は震えたままなのに。
瞳からは涙が零れ続けているのに。
それでも、それでも笑おうとするお前。
俺の、為に。
そんなお前がどうしようもなく。
…どうしようもなく、愛しい……

『泣き虫フュリー』
『ううう…だってだって…』
『泣くなよそんな事で』
『でも…死んじゃったんだもの…』

『…子猫…死んじゃったんだもの……』

優しい、お前。
お前が泣くのは優しいから。
小さな命や、傷ついた者達を放っておけなくて。
そして、その者達の代わりに泣くお前。
小さな痛みを決して見逃したりはしないお前。
そんな優しさにどれだけの奴が気付くのか?

優しい風の瞳が、私を包み込んでくれました。

「…フュリー……」
「レヴィン様?」
「―――好きだ……」

驚くお前の表情を瞼の裏に焼き付けながら、そっとその唇を塞いだ。
そしてそのままきつく、抱きしめる。
一瞬ぴくりと、腕の中の身体が震えて。震えてそして。
そしてゆっくりと腕の中に体重を預けてきた。
それはお前らしく控え目に、そっと。
―――そっと俺の腕の中に落ちた。

「…こんな時に俺…何言ってんだ……」
「……嘘…レヴィン様……だってレヴィン様は姉さんを…」
「マーニャには確かに…憧れていたさ…でも俺は…俺はずっと…その…」
「…レヴィン…様……」
「…ずっとお前の事が……」

「お前の事が、好きだった」

もう一度、その唇に口付けた。お前は俺を決して拒まなかった。
ただ睫毛を震わせながら、そっとそっと俺の背中に手を廻して。
そして唇が離れた瞬間。
その瞬間、聴こえない程小さな声で。

「…私も…です……」

と、それだけを言った。
でも俺にとっては充分過ぎる一言で。
何よりも、欲しかった一言で。
だから。だから俺は…。

この腕の中の小さな存在を力の限り、抱きしめた。

こんな時に不謹慎だろうか?
でもごめんなさい。どうしようもない程嬉しいんです。
ごめんなさい、お姉さん。
…ごめんなさい…お姉さん……

「―――マーニャの事は…ふたりで、乗り越えて行こう…」
「…レヴィン様…」
「いやか?」
「いいえ、とんでもありません…私…その…」
「ん?」
「…その…夢を見ているみたいで…信じられなくて……」
「夢だったらこんなにお前の体温を感じない」
「…レヴィン様……」
「そしてこんな胸の痛みも感じないだろう?」
「――はい……」
「俺と痛みを分け合ってくれるか?」
「…はい……」
「…俺と…哀しみを…分け合って…くれるか?……」
「…はい…レヴィン様……」

再び私の頬から涙が零れ落ちた。
けれども。けれども今は、この涙を受け止めてくれる腕がある。
そして。そして貴方の泣けない瞳を。
…その瞳を私が…受け止められた…なら……

俺の背中を追い掛けていた小さな女の子は。
何時しか俺の背中を越えて。そして。
そして俺の目の前に立って。
同じ高さで、同じ位置で瞳を合わせて。
同じ想いを共有する。
―――おなじ、想いを。
喜びも哀しみも何もかも半分に分け合えるから。

風の、瞳。
貴方の瞳が私を見つめる。

風の、瞳。
お前の瞳が俺を見上げる。

ともに風の中で、生きて行けるならば。
優しい、柔らかい風の中で。

―――暖かい、風の中で。