忘れな草



一面の砂の中で。
水も緑も何も無いその場所で。
ただひとつだけ。
ただ一輪だけ、そっと。
そっと咲くその花びらを。

俺がこの手で、引き裂いた。

何も無いこの場所で。何も何も無いこの大地で。
ただ砂だけが延々と広がるこの場所で。
たったひとつだけ。ただひとつだけの、生きる花。
小さくてでも強くて、そして健気に咲くその花。
何よりも美しく、何よりも優しく。
そして何よりも輝く、小さな花。

『…私が、護ります…』

真っ直ぐな視線。何一つ反らされる事の無い視線。逃れられる事も逃げる事も出来ずに。恐怖と死が紙一重の場所で、それでもお前は俺を見つめる。まっすぐに、痛いほどに真っ直ぐな視線で俺を貫く。
…その瞳に映るのは…『恐怖』じゃ、ない……

『その細い腕で、その小さな身体で、俺を倒せるか?』

小さく咲く砂上の花。それは幻よりも強く、夢よりも優しい。綺麗な、綺麗な、花。
…欲しいと、思った…この花を欲しいと、自分だけのものにしたいと。
自分の手に入れて、そして大切に大切に護りたいと。でもそれは。
それは、叶わない想い。決して叶う事の無い、想い。

『貴方には分からない。愛する者を護りたいと言う想いの強さが』

護るモノ。俺にとって護るモノは、貧しい大地に生きる俺の民。働いても働いても報われる事のない貧弱な大地で、それでも生きねばならない俺の民。それが、それが俺の護るモノだ、愛するモノだ。それでも。それでもお前は分からないというのか?
その濁りの無い瞳で。綺麗なものだけを映す瞳で。そして。
…そして…何よりも哀しい瞳で…俺を…見る……

『俺にとって護るモノは我がトラキアの民のみだ』

その言葉にお前はそっと目を伏せた。ただ哀しみだけを宿した瞳を向けながら。長い睫毛から零れ落ちたのは透明な雫。穢れなき涙。ただ一粒その瞳から、零れた。
綺麗な、涙。この世のどんなモノよりも綺麗な、モノ。俺が触れる事は決して出来ないもの。

『…どうして…私達は同じ人間なのに争わねばならないの?…』

そうだ、俺達は同じだ。何も違わない。手も足も身体も髪も、何もかもが同じだ。同じなのにお前達は裕福な土地を得、そして俺達は貧弱な土地に生きる。同じ人間なのに。同じ心臓を持つものなのに。
…俺とお前と、何が違う?……

『ならば何故お前たちはそんなにも裕福なのだ?同じ人間なのに』

同じ人間なのに、何故こんなにも違う?何故こんなにも?お前は光に包まれ、俺は闇に堕ちている。その手の中にあるのが温かい光なら、俺が持つものは救いの無い闇だけだ。
この手を血で汚し、そして染める事以外何も出来ない。何一つ出来ない、ただそれだけのもの。それだけの、もの。

『…ごめんな…さい……』

ぽたり、ぽたりと。頬から零れ落ちる涙。綺麗だ。とても、綺麗だ。
俺が焦がれたもの。どうしようもなく焦がれたもの。それは光。眩しい程の光。決して俺が手に入れる事の出来ない、何よりも綺麗なもの。
その光を手に入れようとすれば…その先にあるのは破滅しか、ない。

『謝るな、お前は俺の敵だ』

それでも…とその口は語っていた。優しい女。優し過ぎる女。そして何よりも強い女。
光に包まれ、そして愛されている女。俺が望むもの全てを持っている女。
俺の敵。俺の国の、俺の民の敵。それでも。それでもお前は泣く。俺達の為に、そして。
そして俺の為に、泣く。綺麗なその瞳で。穢れなきその瞳で。

『貴方はどうしたら…笑うの?』

笑う?変な事を聞く女だ。変な事を尋ねる女だ。もうすぐ俺の手に掛かって死ぬのに、何故そんな事を聞く?何故そんな事を尋ねる?
俺が笑う事など永遠にないだろう。俺がこの豊穣な大地を手にいれたとしても、トラキアの民が幸せになったとしても、俺は。俺自身は…
俺自身の心が、永遠に満たされる事は。

『そうだな、お前が俺のものになったのなら』

自分で口にしてみて、そしてひどく戸惑った。何気に言った言葉の中に隠された本音に。
そうだ俺は。俺はお前が欲しい。ひの優しい瞳に包まれたい。その強い瞳に貫かれたい。
哀しみを称えた瞳を微笑わせてみたい。でも。でもそれは永遠に叶わない想い。叶うことの無い想い。
お前が誰か分かっている。お前が誰の者か分かっている。愛する男は死に、そして今俺に殺されようとしているお前は、決して俺のものにはならない。
どんなに優しい言葉を掛けようとも、どんなに望みを叶えると言っても。決して、決してお前は俺のものにはならない。分かっている、だからこそ。
だからこそ俺は、お前を手に入れたいと…想ったのだから……。

「私は、永遠にキュアンのものです」
冗談とも本気ともつかない貴方の言葉に、私は真実だけを告げた。私はどんな事になろうとも、永遠にキュアン貴方だけのもの。貴方だけを、愛している。
「知っている。だから言った。だから俺は永遠に笑わない」
冷たい瞳の奥に哀しみが見える。それが何処から来るものかは私には分からなかった。けれども、けれども哀しみだけは…見える。この冷たい瞳の隙間から。
「笑えない」
そっと手が伸びて、私の首にそれが絡まる。苦しいとか、痛いとかそんな事を思わなかった。ただ絡んだ指先の感触だけが、生々しく感じるだけで。
「…可愛そうな…ひと………」
それだけを、言った。それだけを告げた。ただそれだけを思ったから。可愛そうなひとだと。哀しい人だと。それだけを、私は想ったから。
「…ああ、俺は…可愛そうな男だ……」
意識が途切れる瞬間、そっと暖かいものが唇を塞いだ。

俺がこの手で、その花を折った。

花びらが、散る。
この砂上に。この砂の上に。
紅い、花びらが。
ぽたりぽたりと、散ってゆく。

砂漠に広がる、花びらの跡。

「…綺麗だ……」
綺麗だ、綺麗だ。ただひとつ咲く、この花。砂漠の上に忘れ去られたように、それでも何よりも強く輝く小さな花。
「…綺麗だ…お前は……」
冷たい、頬にそっと触れる。俺が手折った花。俺が壊した命。俺が奪った、光。今そっとそれに触れる。
「…綺麗…だよ……」
生ある光に、触れる事が出来ないから。闇に染まった俺には眩し過ぎるから。だから、だからそっと今触れる。そっと、触れる。
…ただひとつ、砂漠の上に咲くその花に……

ぽたりとひとつ、花びらの上に透明な雫が零れ落ちた。

たったひとつ咲く、小さな花。
この砂の上に、誰も知らずに。誰からも忘れられたように。
ただひとつだけ咲く、小さな花。
永遠に咲く、小さな花。
強くて綺麗でそして、そして何よりも儚いただひとつの花。
…俺の…忘れな草……

零れ落ちた俺の涙から滲んだお前の血が、無数の紅い花びらを散らした。