――――水のない水槽に沈みゆく身体は、ただ。ただの小さな干からびた塊でしかなかった。
全てから解放されたその瞬間に訪れるものはただ静かな死だけだった。終わりが見えない永遠の螺旋が千切られるその瞬間は、この肉体が滅びゆく今しかなかった。
「――――お疲れ様、ゼルギウス」
穏やかに微笑うその顔を見られただけでも、救われるような気がした。何時でもどんな時でも崩れる事のない穏やかな笑みは、私の『死』すらもその笑顔で受け入れてくれている。その事実だけが今の私にとっては、救いのような気がした。
「そしておやすみなさい」
この穢れた地上に貴方を置いて逝く私は誰よりも罪深い。それでもこうして貴方は微笑ってくれる。変わる事のない絶対的な『安らぎ』を私に与えてくれる。
―――――貴方の綺麗な指先だけが、私の最期の記憶になる。何もかもが消えて、貴方の冷たくて綺麗な指先だけが……
救いは何処にあったのか?貴方の腕の中にあったのか?貴方と重ね合った肌に在ったのか?それとも。それとも、こうして訪れる死だけが、私自身にとっての救いだったのか?
それすらも今の私にとっては無意味な事だけれど。穏やかに訪れる死の中では思考すらも無意味なものだけれども。それでも。それでも最期に、知りたいと…思った……。
冷たい指先がその頬に触れる。ぬくもりはゆっくりと指先から遠ざかっていったが、構わずセフェランはその頬を撫でた。滑らかな皮膚の感触は、何時しか記憶すらも思い起こす事なくこの指先に馴染んでいた。
「…おやすみなさい…ゼルギウス…そして……」
ふたりの間にあったものが愛だとは思わなかった。そんな生易しいものではなく、そんなにも穏やかなものではなかった。けれどもそれ以外の言葉で当てはめようとしても上手い言葉は浮かんでこなかったが。
「…そして最期の最期になって…私を切り離すのですね……」
救いを求めた手を握り返した。空っぽだった器に身体を繋ぐ事で、生温かいものを注いでやった。生きているという証を埋めてやった。そうやって少しだけ淋しく侘しい心の隙間をふたりして埋めあった。そこから生み出すものが何もなくても、そこから生まれるものが何一つなくても。それでも肌を重ね、刹那に満たされる事を止められなかった。
「この手を離すのですね」
永遠の螺旋から逃れられず、もがいていた手を取ったのは自分だ。そこから目を逸らさせ、熱を与え違うもので埋めたのは自分だ。空っぽの器に生きる意味を注ぎ込み、もう一度『生』を与えたのは自分だ。それなのに最期の最期になって、この手を離した。
「―――ゼルギウス、貴方は私よりも解放を選ぶのですね」
冷たく穏やかな笑みがセフェランの口許から消える事はなかった。紡がれる言葉の音色もただただ穏やかで。ここに在るのは静寂と死だけなのに。――――それなのに、凍えるように冷たかった。
ふたりでいる事にどれだけの意味があったのだろうか?こうして肌を重ねる行為にどれだけの意味があったのだろうか?
『…セフェラン様…私のこの印を知っているのは…貴方だけです…』
剥き出しになった背中の印に舌を這わしながら、幾度となく爪先で抉った。身体を貫きながら、その印に傷を付ける事で、組み敷いた身体はより反応寄こした。だから、何度もこうして抉ってやった。紅い血が滴るまで。紅い色彩に染まるまで。
『…貴方だけが…私の…罪と…私の闇を…知っている……』
全てを暴きさらけ出させて、自分の腕の中に手に入れた。自分だけが作り上げた。空っぽの人形を、こうやってこの手で。
――――だから私のものだ。その吐息も肌も声も髪も…そして命すらも……
冷たくなった身体に触れる自らの指はそれ以上にひんやりと冷たい。もう触れても熱を灯す事のなくなった身体を余すことなく指先で触れた。知り尽くしたその肉体に。
「この私よりも、死を選ぶのですね」
その全てを知っている。一番深くに沈んでいる心の底まで知り尽くしている。何もかもを剥き出しにさせ、曝け出させた。全てを暴いて、全てを注ぎ込んだ。この身体の知らない部分など何処にもない。その心に眠る想いの知らない場所など何処にもない。それなのに。それ、なのに。
「――――そんなの許しませんよ、ゼルギウス」
何よりも魅惑的で何よりも綺麗で、そして。そして何よりも残酷な笑みでセフェランは微笑う。支配者の笑みで、創世者の笑みで、そして。そして、恋人の笑みで……。
優しい死がそっと自分の身体を運んでゆく。そっと運んでゆく。けれどもそれすらも許さないとでもいうように、貴方は私を抱きしめる。私の魂すらも逃さないように、きつく。
「貴方は私のものです。私だけのものです」
貪られる身体。ああそうだ…屍となった私の身体ですら、貴方のものだ。ぬけがらになろうとも私と名のつくものは全て。全て貴方のものなんだ。
「―――私だけのものです…ゼルギウス」
この髪もこの腕のこの肌も全てが貴方のものだ。もう出なくなった声も、鼓動を刻まない心臓も、貴方を映しだす事のない瞳も。それも全て貴方だけのもの。貴方だけが自由にしていいもの。
「…私だけの……」
喉元に咬みつく唇の感触はもう私には感じられなかったけれど、それでも伝わるものがある。無意識と意識の狭間で、生と死の狭間で。優しい死が今私の元を離れ、代わりに訪れるのはただの『無』。貴方の体内にある、何もない闇だけになる。深くて暗い闇だけになる。その空洞に、私は取り込まれてゆく。死すらも許されない場所に取り込まれてゆく。
――――けれどもしあわせだ。ああ、わたしは…しあわせだ……
満たされてゆく。満たされてゆくのが分かる。優しい死よりも、もっと。もっと深い場所で、私の心が満たされてゆく。生まれて初めて感じられる。孤独以外のものを感じられる。それが何なのかは分からない。分からないけど、満たされてゆく。淋しさがそっと。そっと、消えてゆく。
…もうわたしはひとりじゃない。もう、ひとりじゃないんだ……
その肉体を全て余すところなくこの身体に取り込み、セフェランはそっと微笑った。それはいつもの穏やかな笑みでも、冷たい笑みでもなく―――――ただひたすらに綺麗な笑みだった。子供のように純粋な…透明な笑み、だった。