――――それは子供から大人になるまでのそのわずかな時間だけが許してくれる、ただひとつの罪。
地面に散らばった生臭い血の匂いを振り切るようにその場に駆けよれば、蹲って呆然としているエディの姿があった。大量の血の匂いと置かれた剣にこびり付いた紅い色が、何が起きたのか全てを物語っていた。
「――――っ!」
数人の男達の死体の中に混じっている少女の死体を見つけ、レオナルドは思わず吐きそうになる。まだ年場もいかないデインの少女の死体は衣服を無残に引き裂かれ、男達の欲望で白く汚れていたからだ。
「…なっ…これは……」
手元にあった布で少女の身体を清めてやり、身に着けていた上着を掛けてやる。そうした一連の作業を終えて再びエディに視線を戻せば先ほどと変わることなく蹲ったまま、押し殺すように泣いていた。
「…エディ……」
「…う、…うう…俺は…何も…出来な……」
俯いたままのエディに駆けより、そのまま。そのまま手を取った。きつく握り締められたその拳を。
――――悲鳴が聞こえたから駆けつけたら、ベグニオンの奴らが女の子を…だから俺必死になって助けようと剣を振るったら…奴ら俺の剣が降り降ろされる瞬間に彼女を…っ俺は止められなくてそのまま…そのまま…っ後はもう憶えていない…ただこいつらを切る事しか…それしか分からなくて…だから俺…俺っ……
この手を握り締めていれば怖いものなんて何もないのだと思った。どんなものでも乗り越えていけると思った。どんな事があっても、大丈夫だと思った。
「―――エディ……」
名前を呼んでみてレオナルドは後悔した。その先の言葉が浮かんでこなくて。その次に何を言えばいいのか分からなくて。分からなかったから、そのまま。そのままそっと背中に手を廻した。小刻みに震えるその背中を。
「…レオナルド…俺…俺……」
嗚咽を堪えて振り絞るように告げる言葉は、普段の彼からは想像も出来ないほどに弱々しく力ないものだった。それでも懸命に言葉にしようとするのは、胸の奥に閉じ込めておけないからだろう。閉じ込めて消化出来るほど大人ではないからだろう。
「――――エディのせいじゃないよ…だから……」
何を言ってもきっと納得出来る言葉は出てこない。それは分かっている。けれども何も言わずにこうして背中に腕を廻す事しか出来ないのもまた。また、自分自身が辛いから。
「…だから何時ものエディでいて…ね……」
「…レオ…ナルド……」
顔を胸に埋めたまま伸びてくる手のひらに、レオナルドは背中に廻していた手を離してそのまま。そのままそっと指先を重ねた。以前こうやって重ねた時の手のひらは同じような形だったのに、今は少しだけエディの手のひらの方が大きくなっていた。そのわずかな差が、今のレオナルドにとっては少し淋しいものになってゆく。少しだけ、淋しいものに。
何もなくて空っぽだった。僕らは何も持っていなくて、ただ生きる事に懸命だった。その日を生き抜く事だけが全てだった。けれども。
『よろしく、レオナルド。俺はエディ』
差し出された手のひらと、この場所に似つかわしくない笑顔が。この薄暗い裏路地で出逢ったただひとつの笑顔が。
『これから俺たちは相棒だ…一緒に生きてゆこう』
もう何もないと思っていた。父も母も兄も失い僕にはもう何もないのだと。けれどもそれでもこの暖かい手が。僕と同じ未熟な筈の手のひらが、今はとても大きく思えるから。
『よろしく、エディ』
手のひらが結ばれて繋がった瞬間、ふと思い出した。僕は『生きて』いるのだと。命があって思考があって、そして。そして自らの意思で生きているのだと。そんな当たり前の事をこのぬくもりが思い出させてくれた。そんな当たり前の事をこの手のひらが…僕にくれたから。
変わらないものなどないという事は分かっている。ずっとこのままでいられないという事も分かっている。何れかは自分の生きる道を決めて別々の場所に旅立ってゆく事も。それでもこうして手のひらを重ねていれば、何時もふたりが初めて出逢った時間へと戻してくれた。少しずつ手のひらの形が変化していっても、互いの背が伸びても、大人への階段を昇り始めても。
「…ごめんな…ごめん…俺…俺…弱くて…こんな…こんなっ……」
何時でも前を見て真っ直ぐに進んでゆくその姿をずっと羨ましいと思っていた。そして同時に何処か憧れてもいた。同じように天涯孤独で絶望の中に置き去りにされている筈なのに。なのにいつも。いつも明るく前だけを見つめていたから。
「そんな事ないよ、エディ。君は強いよ。それは一番近くで見てきた僕が一番知っているから。だからそんな事言わないで」
繋がった指先の力が強くなる。何かに堪えるように必死に手のひらに力を込める。その痛みの全てを受け止めたいと願っても、きっと目の前の相手は拒絶するだろう。そんな生温い優しさを求めてはいないのだろう。けれども。
「君は強いよ―――だって今でもこうやって…こうやって涙を吐き出して乗り越えようとしている。僕だったらきっと心の奥に閉じ込めて蓋をしてしまうから」
「…レオ……」
「そんな君は僕にとって何よりも羨ましくて何よりも…大切で……」
その先を告げる前にゆっくりと顔が上がって視線が絡み合った。睫毛が何度か揺れそのたびに大粒の涙がぽたぽたとエディの瞳から零れ落ちる。それがひどく綺麗で。綺麗だった、から。
「…大切なんだ…君が……」
驚いたように見開かれた瞳を瞼ら裏に焼き付けてそのまま。そのままそっと唇を塞いだ。
―――――この想いが恋なのか友情なのか、それとももっと別なものなのか僕には分からなかった。
触れて離れる唇の感触が、今はただ。ただ苦しくて。苦しくて切なくてどうしようもなくて。どうしていいの分からなかったから、だから。
「…エディ…っ……」
レオナルドを引き寄せ、そのままエディはその唇を塞いだ。彼がした事と同じように、その唇を。
「…んんっ…んんんっ……」
こんな時に何をしているのだろうと思った。けれども何もせずにはいられなかった。身体の奥底から湧きあがるどうにも出来ない虚しさと悔しさが入り混じって、何かに縋らずにはいられなくて。いられなかったから。
「…レオ…俺…俺……」
「…いいよ…エディ…もっと…もっとキスしても……」
互いの息を奪うくらいに激しいキスをした。やり方なんて分からなかったから、懸命に息を奪い合った。舌を絡めて、ただ必死に。そうする事で生まれる熱が、壊れていた気持ちを少しずつ別の場所へと押しやってゆくから。だから何度も。何度もキスをした。ただ夢中に、がむしゃらにキスをした。
―――――そうして少しでも救われるものがあるのならば。少しでも塗り替えられるものがあるのならば。
この想いは恋なのか?それとも友情なのか?それとも同情?
「…君のせいじゃない…だから自分を…責めないで」
そのどれもが正しくて、そのどれもが間違っている気がする。
「…レオ…俺…もっと…もっと強くなりたい……」
そのどれもが本当の答えから少しずつずれているような気がする。
「…もっと強くなって…デインの皆を護れるように…」
だって僕は何よりも。何よりも君が大切だから。何よりも君が大事だから。
――――恋人よりも親友よりも、もっと。もっと大切な存在。何よりも大事な存在。
何時しかこの指先が離れる日が来たとしても、それでももっと別のものできつくふたりを結べるものがあるとするのならば、僕は。僕はその絆が欲しかった。君と結ぶその絆が欲しいと願った。
「…うん…僕も…僕も強くなりたい…君の背中を護れるくらいに強く…強くなりたい…君が好きだから……」