必然



口づけている間に、舌を噛み切ったらお前は怒るだろうか?それとも、皮肉交じりに微笑うのか?


漆黒の夜空の中に溶けてしまえたらと思う事がある。この羽も髪も、全てこの怖いほど美しい闇の中へと。全部溶けて、しまえたらと。
「―――夜に塗れて生きているのに…闇夜が見えないなんて皮肉だよな」
強く光る月の光以外、瞳に映し出されるものはなかった。こんなに夜に生きているのに、夜空が見えない。それはひどく滑稽で、ひどく侘しく思えた。けれども、何よりも自分に相応しいと思った。このいびつな存在が。
「結局俺は、こんな生き方しか…出来ないからな」
それを不幸だとか、悔しいとか、そう思っていた時期はとうに越えていた。自分の民にとってよい王であればいい。その答えを導き出せた瞬間、今までの全ての出来事が、そしてこれからの全てを乗り越えられるのだと、そう。そう思えたから。


―――正しくなくていい、間違っていてもいい、自分が護りたいと願うものを護り通すことが出来るならば。


今自分の身体に刻まれた印はない。あれだけ苦しめていた血の盟約は、いとも簡単に自らの身体から抜けていった。それはあっけないほど簡単に。そのあまりのあっけなさに、心の奥にあった色々な想いですら、簡単にすり抜けていった。今はただ。ただ、穏やかな気持ちと、償いが残っているだけで。
裏切りと闇だけに生きた自分に、償いなどという無償の行為が似合うとは到底思えない。それでもやらねばならない事だ。やらなければならないこと。新しく生まれ変わった世界で、自分の民を護るため。自分の民にとって良い王である為に。―――もう『王』ではないのだけれども。それでも、烏の民が新しい鳥族の中で真っ直ぐに生きてゆけるように、自分は犯してきた罪のひとつひとつを、償わねばならない。それは自分が民にとって良い王であればいい、とそう願った気持ちと何一つ変わらないことだった。やっている行為は違えど、気持ちは同じものだった。その軸がブレさえしなければ、自分はどんな事でも出来た。どんな事でも、出来る。


――――ふわりとひとつ。ひとつ、風が、吹いた。


「見えない夜を見るのは、お前の悪趣味のひとつか?」
風と同時に溶け込むような声を、ネサラは無言で聞いていた。振り返らずとも、分かるその声。そして同時に微かに香る野生の雄の匂い。
「こんな夜空の中、綺麗な月を眺める…高尚な趣味さ」
匂いに、包まれる。むせかえるほどの雄の匂い。この誇り高き鷹の王は、どんな小さな獲物も逃さない。こんな風に闇に塗れても…自分を逃さない。
「―――そうか……」
力強い腕がネサラのしなやかな肢体を、そっと抱きとめる。包まれる香りにぞくりとしながら、その顔を見上げれば落ちてくるのは厚い唇だった。弾力のある、その強い唇がネサラのそれを塞いでゆく。
「…ティ…バーン……んっ……」
角度を変え何度も何度も口づけられて、ネサラの息が弾む。それでも口づけの雨は止まらなかった。ただもどかしいほど、意識と熱が奪われるだけで。
「…ネサラ……」
やっとの事で解放され、ネサラは熱い吐息を吐きだした。その吐息の甘さが嫌だった。こんな風にキスだけで、ティバーンに溺れている自分自身が。けれども、それを抑える術を知らない。この腕から…逃れる方法がもう分からなくなっていた。
「…お前は…来て早々…発情期か?」
皮肉交じりに言うのは何時ものことだった。甘い囁きや愛の言葉は、自分には最も似合わない。そしてそれを特段相手が望んではないことも。そんな甘ったるいものよりも、醜くてもいいから確かな絆の方が欲しかった。
「お前の前では何時ものことだ、ネサラ。そのくらい分かっているだろう?」
「―――万年発情期か?部下が知ったらさぞ悲しむだろうね」
「お前以外にはこうはならん。だから心配は無用だ」
「何が心配なんだか―――」
ネサラの言葉は最後まで声にならなかった。ティバーンの唇が再び降りて来て、その声を奪っていってしまったから。



漆黒の闇に、その後ろ姿が溶けてゆく。じわりと深い闇の中へと。それが嫌で、それが許せなくて、抱きしめた。その肢体を。その細くてしなやかな肢体を。何処にも、逃げないようにと。何処にも、逃がさないようにと。


薄く開かれた唇に、濡れた舌を絡ませる。
「…んっ…ふっ……」
わざとぴちゃぴちゃと音を立てながら、その舌を。
「…はぁ…んっ…んんん…」
このまま。このまま舌を噛み切りたいと思った。
「…ティ…バーン…はぁっ……」
このまま、噛み切ってしまいたいと。噛み切って、そして。


―――――そして自分だけのものに、したい、と。


その髪が、その翼が、その存在が、漆黒の闇に奪われないようにと。そんなものに奪わせはしないと。やっと手に入れたこの掛け替えのないものを、絶対に奪われはしないようにと。
「―――ネサラ…何処にも行くなよ」
気まぐれで嘘つきで、何度も何度も裏切られてきた。それでも、諦めきれなかった。どんなになっても諦めることが、出来なかった。
「さあな、俺は気まぐれな烏だからな…そんな約束は出来ないぜ」
「構わん。約束など無意味なほど…俺がお前を縛り付けてやる」
力の限り抱きしめて、再び唇を奪う。伸びてくる舌を、噛み切りたい衝動に駆られながら。その舌を噛み切りたいと、願いながら。


―――――そんな醜い独占欲ですら、お前は皮肉交じりに笑うのだろうな……



お前が追いかけるなら、何処までも逃げよう。
「…ティバーン…俺を…」
お前が俺を追い続けてくれるならば、何処までも。
「…俺をずっと…追いかけろよ……」
だから俺を、見失うな。例えこの闇に呑まれたとしても。


――――闇に溶けたいという衝動を沈めるのは、この腕だけなのだから。


月だけが、ふたりを見ている。強い光を放つ月だけが、ふたりを見ていた。その光だけを映し出す互いの瞳は、必然的に互いの姿だけを映し出していた。互いの存在だけを、見ていた。