―――私が生きている間にただひとつ手に入れた、ぬくもり。
ずっと独りで生きてきた。これからもずっと独りで。ずっと独りで生きていゆくのだと、思っていた。この背中にある、消えない「印」がある限り。それを淋しいとも悲しいとも思うことすらなくなって、感情が麻痺した頃、その手が私に差し伸べられた。
「その時が来たら…私の元に身を寄せませんか?」
穏やかな瞳が静かに私を見つめ、そしてそっと微笑んだ瞬間。その瞬間に私は、捕らわれた。その瞳の中に捕らわれた。それは孤独だった私にとって、何よりも甘美で、何よりも歓喜な誘惑だった。
それからずっと。ずっと、その瞳の中に私は捕らえられている。でもそれは何よりも私自身が望んだこと。
―――ただひとつ差し出されたその手を取ることが、私にとっての全てになった。
「貴方の瞳は、暗くて深い。まるで漆黒の闇のようですね」
穏やかな声が耳元をすり抜けてゆく。まるで歌うように語るその声はひどく心地よい。ずっと聴いていたいと願うほどに。
「―――ずっと闇の中で生きてきましたから」
絶望だけが自分の全てだった。希望など持つから深い哀しみに襲われる。それならば初めから何も持たずに、絶望の中で息をしていればいい。そうすれば少なくとも裏切られる哀しみと、叶わない願いを抱くことはないのだから。
「でも、綺麗ですよ」
「…セフェラン様?……」
「貴方の闇には曇りがひとつもない。何処までも深い色彩が続いている」
「それだけ私には何もないということです」
自分を見つめる瞳の穏やかさは、まるで全てを見透かしているようだった。空っぽの筈の自分の中にある、捨てきれなかったただひとつの『望み』ですら見通すような、瞳。その瞳に、捕らわれた。
「何もないならば、私のことだけを考えなさい…ゼルギウス」
ひんやりとした冷たい手が頬に重なる。その手には命のぬくもりを感じられなかった。あの時…初めて手を延ばされた時には、ひどく。ひどく暖かいぬくもりを感じたのに、今は。
「―――私の事だけ、考えなさい。それ以外貴方には必要ないのだから」
柔らかい笑みと心地よい声に思考が奪われ、そしてそのまま。そのまま唇が塞がれる。その感触に…全てが奪われていった。
―――ただひとつだけ、望みがあった。もう叶うことはないけれども。もう叶えられない望みだけれども。ただ一度でいいから、あの人と剣を交えたかった。何も無くただ純粋に、どちらが強いかを競い合いたかった。それはもう二度と叶わない願いだったけれど。自分から断ち切った願いだったけれど。それども。それども、どうしても消す事が出来ない想い、だった。
「私の空洞を貴方が埋めてくれたなら…私は救われるのでしょうか?」
空っぽの自分の消せなかったただひとつ望み。それすらもこの存在に全て埋められたら、消せるのだろうか?全てを埋められたのならば。
「さあ、それは貴方次第ですよ、ゼルギウス。貴方の心の奥底にある願いすら、私は貴方から奪うつもりですけれど」
くすりとひとつ、微笑った。その笑顔は怖いほどに綺麗だった。あまりにも綺麗だから、目が離せない。離す事が、出来ない。
「…奪ってください…セフェラン様…私から何もかも……」
再び降りてくる唇を、拒むことなど出来ない。抱きしめる腕の暖かさを…受け入れることがひどく心地よかった。それはまるで母親に抱かれているような、心地よさだった。
背中の印に口づけられて、睫毛が震えた。こころが、震えた。
「―――可哀想に、コレのせいでずっと貴方は独りだった」
唇が、指先が、印を辿ってゆく。決して消えることのない、永遠の枷を。
「…でも…貴方に出逢えた…セフェラン様……」
この印と同じように、貴方という存在が私に刻まれてゆく。
「…ゼルギウス……」
楔のように私の中に打ち付けられて、消えない枷として。
「…こうして…貴方に…出逢えた……」
消えなくてもいいと、思った。このまま全身に食い込んで。
「…貴方に…出逢えたから……」
私の全てを食らい尽くされてもいい、と。そう思ったから。
――――頬に触れた手は冷たかったのに、重ね合わせた身体は暖かい。初めて触れたあのぬくもりのように…暖かい。
「…私も貴方に出逢えて幸せですよ…独りでいるにはあまりにも永過ぎて…私の心は、孤独に蝕まれていましたから……」
捕らえられてゆく。心も身体も。
「…セフェラン…様……」
見えない細い糸が、全身に食い込んで。
「…貴方は…何処に……」
無数の糸が全身に食い込んで、そして。
「…何処に私を…連れてゆくのですか……」
そして何時しか、その糸が私を引き千切るのだろう。
―――――何故だろう、自分はその瞬間を待ちわびている。羨望にも似た想いで、待ちわびている。
声が降ってくる。ゆっくりと、静かに、降ってくる。まるで降り積もる雪のように、その声は私を埋めてゆく。
「―――貴方の行き先は私が決めます。だから貴方は何も考えなくていい」
その声に溺れてゆく。その声に埋もれてゆく。それは幸せなことなのだろうか?見えない孤独よりも、ずっと。ずっと幸せなこと?
「…ただ私のことだけを考えていればいい、それだけでいいのです……」
あまりにも深い闇にいたから、忘れてしまっていた。光ある場所を。他人のぬくもりを、暖かい腕の中を。全部、忘れてしまっていた。だから。
「…セフェラン様……」
だから今。今こうして与えられた全てのものが私には眩しすぎて。眩しすぎて、泣きたく、なった。
闇から引きずり出した手は、あまりにも冷たく。
ぬくもりを与えた身体は、あまりにも脱け殻で。
だから、与えよう。全ての光と、全ての暖かさを。
――――このぬくもりを、与えよう。全ての孤独と闇を、消しさるまで……