――――水を、ください。私に水を。枯れないように、その雫を私にください。
そこに、永遠はなかった。ずっとなんてものは、何もなかった。それでも縋った。それでも願った。この瞬間が、永遠ならばと。
「…セフェラン様……」
伸ばした指の先には貴方の冷たい頬がある。ひんやりと、冷たい頬。どうしてだろう、肌を重ねる時はあんなにも熱いのに…こんな時に触れる貴方はひどく冷たい。
「…きっと貴方は私の心など、全てお見通しなのでしょうね……」
伝わるものが暖かなぬくもりならば、きっとこんなにも。こんなにも簡単に、諦められなかった。貴方に血の通った暖かさを、感じたならば。
「―――私に貴方の願いを止める事は出来ませんよ。貴方がそう望むのならば…自らの全てで叶えればいい」
そこにあるのは綺麗な笑顔。綺麗過ぎて、触れる事が許されない…そんな笑顔。そんな貴方にこうして触れている私は、何よりも罪深い生き物なのだろうか?
「それで貴方が解放されるのならば…私には止める事が出来ない。そうでしょう?ゼルギウス」
貴方とともに在ることで、私は救われた。干からびた私に潤う水を与えてくれたのは貴方だ。貴方だけ、だ。それでも。それでも、私は―――。
「私の忠誠心と…想いは貴方だけに在ります。それは真実です」
貴方は私の支配者で、そして共犯者だった。唯一の安らぎで、唯一の怯えだった。貴方に抱かれる事で満たされる身体と、同時に訪れる永遠の飢餓が私を少しずつ狂わせた。それが幸せだったのか不幸だったのか、もう私には分からない。分かっていることはただひとつだけ。貴方を愛しているということだけだった。
「だからこそ…もう私は……」
頬に触れていた手に、貴方の指先がそっと絡まってくる。ひんやりとした冷たい手。その冷たさこそが、貴方が私の支配者である証拠。
「―――愛していますよ、ゼルギウス」
表情一つ変えずに告げる言葉は、ただひたすらに穏やかで。どんな時でもどんな瞬間でも、この人が乱れることはない。崩れることはない。それが私の喜びでもあり、絶望でもあった。
「…私も…愛しています…セフェラン様……」
支配者としての完璧な貴方を望めば、私の想いは苦しめられる。愛人としての貴方を望めば、私の望みは壊される。どちらを望んでも、どちらも叶えられない。それは貴方を選んだ時から私に与えられた永遠の矛盾。逃れられない迷路。
唇が、触れる。優しい、キス。優しすぎる、キス。でもその唇はひんやりと、冷たい。
―――溺れて壊れてしまえれば、楽になれたのに。
その腕の中に溺れて、何もかもを。何もかもを捨ててしまえれば。
想いも、願いも、欲望も、全て。全て、壊されてしまえば。
私という『個』ですら、消してしまえれば。そうすれば。
与えられた水で全てが満たされ、そして私という存在が溢れてしまえれば……
こんなにも貴方を愛しているのに。こんなにも貴方だけを愛しているのに。どうして私は貴方から逃れようとするのだろう?どうして自らの死を、願ってしまうのだろう?
「戦って死を願うのは騎士ならば当然のこと。貴方は私だけの騎士なのですから」
髪を撫でる指先が、怖い程に綺麗だと思った。白く陶器のようなその指先が。まるで別の生き物のように、私の網膜に焼き付いて離れない。
「だから私のために死になさい。貴方が死を望むなら…私のためだけに…死になさい」
瞼を閉じて胸に耳を押し当てた。そこから聴こえるのは命の音。貴方の命の鼓動。こんなことでしか貴方の『生命』を感じ取れない私は、もうどうする事も出来ないのだろう。もう…どうする事も……。
「―――私のため、だけに……」
貴方のために生きたいと願った。絶望しかない私のただひとつの生きる意味を、貴方だけが与えてくれた。けれども貴方が与えた意味すらも、私の想いは飲み込んでゆく。貴方への想いが、全てを飲み込んでゆく。もうそれを、止める術を私は知らない。
貴方だけを、愛した。貴方だけを、望んだ。
貴方だけを、願った。貴方だけを、祈った。
―――貴方だけを護りたいと願い、貴方だけを壊したいと望んだ。
騎士として、貴方のそばで生きていきたかった。けれども内側から目覚めた欲望が、その願いを蝕んでゆく。騎士として生きるよりも、個人として貴方に愛されたいと願ったその瞬間から。
「私は貴方の騎士です。セフェラン様」
その言葉に嘘はない。貴方の野望とともに生きると決めたあの瞬間から、何一つ変わりはない。それでもその言葉だけで生きて行ける程、私の心は透明ではいられなかった。
「だから私の死すらも、貴方のものです」
「それでも貴方は、望むのですね…彼と戦って死ぬ事を」
もしも貴方が少しでもその言葉を違う音色で奏でてくれたならば、私の心は変わったかもしれない。けれども貴方は変わらない。どんな時でもどんな瞬間でも、私にとっては絶対の支配者だった。どんな言葉でさえ、貴方は穏やかな声で告げる。それは貴方が私の支配者である絶対の証。
「―――貴方のために、死にます…セフェラン様……」
貴方の騎士でいたかった。貴方だけの騎士でいたかった。貴方を護るそれだけのために生きたかった。けれどもそんな願いを打ち壊したのは他でもない私自身。私自身の想いが、生きる意味を打ち砕いた。自らの手で、壊した。
「…それが、私が生きた証…貴方の『騎士』である証……」
忠誠の中に欲望が滲んだら、もう。もうそれは、忠誠ではなくなる。騎士が主君を望んだ瞬間に、騎士ではなくなる。貴方を望んだ瞬間に。
身体を繋ぐだけならば、良かった。支配者たる貴方の望み通りに身体を開くだけならば。命じられた通りに身体を捧げて、欲望のはけ口として注がれるだけの人形であれたならば。
なのに、熱かった。重ねた肌は、熱かった。
奪われる吐息の激しさと、繋がった個所の熱が。
――――繋がった身体とともに、心までも結んでしまったから……
伸ばされた綺麗な指先に唇をひとつ落とした。それは騎士たる誓い。私のただ一つの、貴方への誓い。最期の、誓い。
「―――私は貴方だけの騎士です…セフェラン様……」
騎士として死にゆく私だけが、それだけが貴方に捧げられるもの。それだけが貴方のために私が出来る事。内側から壊れ狂っていった私の―――ただひとつの……。
与えられた水が溢れても、その中に溺れていっても、それでも。それでもまだ私は願っていた。もっと、もっとと。永遠に満たされない渇いた喉で、貴方という水を求めていた。