羽ありたまご



伸ばした手の先に繋がれたぬくもりが世界の全てになった瞬間、僕は初めて『生きている』という言葉の意味を知った。


何のために生まれ、何のために生きて、何のために呼吸をして、何のために…何のためにこの広い世界の中でこのちっぽけな命が存在しているのか?その意味を捜す事すら僕はきっと諦めていた。貴方に出逢うまで、諦めていた。
「―――アイクやっと……」
辿り着いた場所が何処であろうとも構わなかった。そこに『貴方』がいてくれさえすれば。何も、いらない。他には何も。
「…やっと…貴方に…辿り着いた……」
それはまるで永遠の時のようで、また一瞬の出来事のようでもあった。けれども、どうしてかな?淋しいと思う事は一度もなかった。一度も、ない。貴方が僕の心の中にあり続ける限り。貴方の存在が僕の中にあり続ける限り。独りではない。心に貴方がある限り。
「やっと…貴方のそばに逝けます……」
夢は夢でしかなくて、ここにあるのがただの虚しい現実だけでも。こころの奥にある貴方の存在こそが僕にとっての真実である限り、哀しみというものはもう何処にもなかった。


まだ幼い手が僕にそっと差し出される。それはとても。とても、暖かくて。
『腹、減ってるんだろ?良かったら食べろよ』
枯れ木のように細くてみすぼらしい僕の手に置かれた食料と、そして。
『そんな顔すんなよ、別に毒なんて入ってねーから』
そしてまるで太陽のような笑顔で、僕に向かって微笑ってくれた瞬間。


――――初めて僕は自分が『生きている』という事に気が付いた。生きているんだ、と。


瞼を閉じて浮かぶものはずっと変わることはなかった。何一つ変わることはない。貴方の輪郭がぼやける事も、霞む事もなかった。ただ鮮やかに、僕の心に貴方だけが在り続ける。
「…アイク……」
命が終わる事を願う事は止めた。どうあがいても身体の中を巡る時間軸は違うものだったから。ばらばらに進む時計の針が重なった瞬間を喜びこそすれ、それを悲観する事は無意味だと思えたから。別れよりも、出逢いこそ意味のあるものだったから。

――――貴方に、出逢えた事。それよりも大切なものは僕にはない。

貴方の最期の時は僕が貰った。他の誰にも知らせずに僕だけが貰った。死に逝く瞬間すらも、僕だけのもの。だから僕の全てが貴方だけのもの。この身体で、この瞳で、この指先で、この想いで、貴方という存在を全て記憶しているのだから。
「…ずっと…愛しています……」
貴方を埋めたこの場所に建てた木は、時の流れのせいで朽ち果て風化した。ここが墓なんてもうきっと誰にも分からない。でもそれでいい。僕が知っていれば、それでいいのだから。
「…ずっと…ずっと……」
土のぬくもりに貴方の破片を捜す。何処にもない貴方のかけらを捜す。最期に少しだけ見つけられたならば、きっと。きっと、しあわせ。


ただ逢いたいとそれだけを願った。他に望むものはなかった。ただ逢いたかった。それだけだった。
『―――セネリオか、いい名前だな。よろしく』
捜して捜してやっと見つけ出した貴方は、僕の事は何一つ覚えてはいなかった。けれども、それでも構わなかった。構わない、貴方のそばにいられるのならば。
『よろしくお願いします、アイク』
差し出された手のぬくもりは変わらない。ずっと、変わらない。暖かくて優しくて、そして力強い手。この手が差し伸べられるなら、僕はどんな事でも出来ると思った。


―――僕はどんな事でも、出来た。貴方のためならば、どんなことだって。


めまぐるしく駆け抜けてゆく日々が。戦い続ける日々が。死と背中合わせのぎりぎりの日々の中で。ただひとつの怯えは貴方を失う事だけだった。本当にそれだけだった。誰のために戦っているのかと問われれば、迷わず貴方のためだと答えただろう。それほどまでに僕にとっては他の事がどうでもよいものになっていた。貴方以外の全てが。
『勝って、皆で生きていこう』
それが貴方の願いならば、僕の全てを賭けてそれに答えよう。貴方が望むものは全て、全て僕が叶えたいから。何時しかそんなどうしようもない感情が生まれて、自分を抑えきれなくなっていた。ただそばにいられればいいと、それだけを思っていた筈なのに。何時しかその先にあるものが、欲しいと願うようになっていた。


「…貴方だけを…愛している……」


欲しくてどうしようもなくて、それでも必死になって抑えて。そしてどうにもならなくなった時。もがく事すら出来ずに、立ち止まったら。立ち止まったら…貴方は振り返ってくれた。失っていた記憶とともに。


不器用な手でそっと。そっと髪を撫でてくれた。
『忘れてて、悪かったな』
その暖かい手のひらが僕の髪を、撫でてくれたあの瞬間。
『…悪かったな…セネリオ……』
生まれて初めて声を上げて泣いたあの時。あの時僕は。


―――――僕は初めて知った。『生きている』という事の本当の意味を、あの瞬間に初めて理解した。


まるで昨日の事のように浮かんでくる数々の日々は、全部。全部貴方がいてくれたから。どんな場面でも、どんな瞬間でも、貴方がそばにいてくれたから。それはまるで夢のような日々。夢よりもずっと、優しい日々。
その優しい日々に包まれて、僕は眠る。永遠の眠りにつく。ここに辿りつくまでの日々は、貴方に出逢うまでの日々よりもずっと。ずっと僕にとっては短いものだった。だって貴方はここにいる。僕の中に在るのだから。


声が、聴こえる。貴方の声が。声が、降ってくる。
―――セネリオ……ありがとう…
死に逝く僕に降り積もるのは貴方の優しい声。
―――ありがとう…ずっと俺を憶えていてくれて…
それに包まれ僕は優しい死を待っている。
―――ありがとう…セネリオ……
優しいその瞬間を、待っている。



…ねえアイク…僕は貴方にとって必要な人間でいられましたか?……



答えはもう何処にもないけれども。それでも少しでも貴方にとって必要な存在であれたならば、それだけで。それだけで僕は満たされる。それだけで僕は、嬉しい。
貴方にとって僕という存在が最期まで、貴方の破片のそばを彷徨う事が出来ればそれだけでいい。それだけで、いいから。


…消えゆくちっぽけな僕が貴方の魂のそばに在ればと…それだけを、願った……