――――さよなら、と。さよならと、その一言がどうしても言えなかった。
小さな手が、そっと触れる。がりがりに痩せた、小枝のように細い指先が。差し出した私の手に、そっと触れる。そこから微かなぬくもりが広がって、広がって私を包み込んだ。
「――― 一緒に、行く?」
触れた体温はほんの僅かなはずなのに。なにのその暖かさは私の全てを包み込んだ。人を避けて生き、孤独だけがそばにいた私にとって。そんな私にとって初めて与えられた、ただひとつの小さなぬくもり。
「私と、一緒に」
瞳だけが、大きかった。身体も、手も、脚も、全部小さかったけれど、私を見つめる翠色の瞳だけは、大きくてまっすぐだった。
その瞳がまっすぐ私を捕えて、そしてこくりとひとつ小さく頷いた。その瞬間に私はもうすでに、この瞳に捕らえられていたのかもしれない。その翠色の綺麗な、瞳に。
……その時から、始まっていた。この終わりのない、出口のない恋が。
恋をした。恋をしました。生まれて初めての恋です。
ずっと独りだったから。ずっと独りでいると思っていたから。
誰の手も取らずに、誰のものにもならずに。ずっと。
ずっと独りで生きていく、そう決めていたのに。なのに、私は手を取った。
幼くて小さなその手を。その微かなぬくもりを。
触れてしまったら、もう離せないと分かっていても。
恋をしました。たった一度の恋です。気が遠くなる程の生の中で。
気が狂うほどの長い時間の中で、それは一瞬の出来事。瞬きするような瞬間。
それなのに、どうして?どうして、こんなにも。こんなにも私の中で。
私の中で色鮮やかに生きているの?今までの時間が無意味になるほど。
今までのすべてを忘れさせてしまうほど、私にとって。私にとっての全てになる。
恋を、しました。それは何よりもしあわせで、何よりもかなしい。
日に日に成長していく目の前の彼が眩しくて、目を細めた。その瞬間に零れてきた涙の訳を気づかれたくないと思い、気付いてほしいと願う。どこまでも、矛盾した想いだった。
「ミカヤ、今日はいつもより多く捕れた」
何時しか私の身長を越えていた。出会ったころは半分しかなかったのに。今はこうして見上げなければ、その翠色の瞳を見ることが出来ない。
「お疲れさま、サザ。これだけあればしばらくは、食べ物に困らないわね」
私の言葉に無邪気な笑顔を見せる。そんな所はまだまだ子供だ。その事が私を安心させる。まだ子供でいてと、大人になってしまわないでと…私を置いて、いかないで、と。
「ミカヤ」
「何?」
「―――何か、あったのか?」
頬に手が、触れた。その手はあの頃の小枝のような細い手じゃない。小さな、小さな、手じゃない。もう子供の手、じゃない。
「…濡れてる…泣いていたのか?」
「光が眩しくて、目が痛かったのよ。大丈夫、気にしないで」
「そんなら、いいけど…もし何かあったら俺に言えよ。俺はミカヤの『家族』なんだから」
「ふふ、そうね。私たちは『家族』だものね」
家族だった。私たちはふたりきりの家族だった。血は繋がっていなくても、私たちは確かに家族だった。その事実が私の心にブレーキをかけ、現状を繋ぎとめている。その事実があるからこそ、私はこうして強くいられる代わりに、溢れそうな想いを必死に止めている。
「しばらくはこの街にいるつもり?」
「ええ、少しゆっくりしましょう。あてのある旅ではないし、たまにはいいでしょう?」
私の言葉に彼は無言で頷いた。こんな瞬間、ひどく大人の仕草を彼は見せるようになっていた。それは少しずつ、けれども確実に増えてゆく。そしていつしか彼は大人になり、私はそばにいられなくなる。その瞬間が少しでも延ばせるようにと願うしか私には出来ない。
――――彼が少しでも子供時間の中に生きているように、と。
ほんとうは、涙をぬぐって、そして。そして、だきしめて…ほしかった。
さよならと、言わなければならない日がくる。それは嫌というほどに分かっている。私たちは生きてゆく時間軸が違う。彼はこうして日々成長していく。けれども私は変わらない。私はずっと、変わらない。貴方が成長し、大人になり、そして誰かと結ばれるのをただ見ることしか出来ない。ううん、その前に。その前に貴方から消えなければならない。この呪われた血が貴方を傷つける前に。
時計の針のように触れ合った瞬間に、ふたりは出逢った。けれども何れ時計の針は離れてゆく。私と貴方の時間は、一瞬だけ重なって…そして離れてゆく。
「―――ミカヤ」
貴方が呼ぶその声が。貴方の声だけが。
「眠いのか?だったら」
私の全てを埋めてくれたら。
「だったら肩貸すから、寝ていいぜ」
私の全てを貴方で埋めてくれたら。
そうしたらわたし。わたし、しあわせになれるのかな?
声が遠ざかってゆく。何時しか私の意識はゆっくりと途切れていった。落ちた瞼に何かがふわりと当たった。けれどもそれが何かを確認する前に私の意識はゆっくりと沈んでいく。ゆっくりと深い場所へと、沈んでゆく。
「………だよ……ミカヤ………」
夢を、見た。夢を、見ている。
だって今貴方の唇が、触れている。
私の唇にそっと、触れている。
暖かくて、優しいぬくもりが触れている。
――――なんてしあわせで、なんてかなしいゆめなの?
指が触れている。小枝のような貴方の手が私の指に絡まる。私がすっぽりと包みこんであげないと、ぬくもりが消えてしまうから、ずっと。ずっと握っていてあげるね。ずっとつないでいてあげるね。ずっと、ずっと……
――――あなたが、さびしくない、ように……
子供が宝物を必死で握るように、その指はサザのそれに絡まっていた。何かを護るように必死に。
「…ミカヤ、好きだよ……」
その言葉を何時か言える日がくるのだろうか?それはサザにも分からなかった。けれどもただひとつだけ分かっていることがある。その言葉を告げた瞬間に、ふたりは『家族』ではなくなるということ。家族ではいられなくなるということ。その瞬間今まで二人で作り上げてきた絆は、終わる。
それでも。それでも、告げてしまいたいという想いが心の奥から突き上げてくる。
恋をした。恋をしている。生まれて初めての恋。
ただ一人の女。自分にとって母であり、姉であり、そして。
そしてただ独りの『女』。ただ独り恋したひと。
――――ただ一度の、恋をした。最初で最期の恋をした。
さよならだけが、言えない。今つながっている手を離すことだけがどうしても出来なかった。