夢頃



――――目覚めた瞬間に、思い出す。もう何処にもいないのだということを。


それを愛と呼ぶには、あまりにも儚すぎて。それを恋と呼ぶには、あまりにも綺麗すぎて。だから、どうしていいのか分からずに。分からなかったから…触れるだけのキスをした。



小さな手が、そっと触れる。それはとても暖かかった。一度だけの永遠の、瞬間。最初で最後の、体温の触れ合い。たった一度だけの、ぬくもり。だからなのか、こんなにも。こんなにも消えないのは。手のひらに残った感触が、ずっとずっと消えないのは。
「―――ユンヌ……」
呟いた声はもうどこにも届くことはない。ただ音として風に運ばれるだけだ。それでも、呟いた。それでも、呟く。その存在が決して幻ではなかったのだと、確認するために。
「あんた、ずるいな。こんなにも」
こんなにも、消えないぬくもりを手のひらに残した。どうやっても消えない感触を指先に与えた。どんなに願っても…もう二度と…触れることはできないのに…。
「こんなにも俺に…残してゆくんだな…『あんた』という存在を……」
一度だけ触れた指先。一度だけ重なった唇。一度だけ…零れおちた涙。それを知っているのは自分だけ。自分だけが知っている、女神でないただの『ヒト』になった彼女の真実。
「…こんなにも…俺に……」
気付いた時には全てが終わっていた。始まりが、終わりだった。この気持ちの名前に気付いた瞬間に、与えられたものは別れだった。大きなものを得た瞬間に、ただ一つのものを失った。それは世界という大きなモノにとっては本当に些細なモノなのだろう。けれども。けれども、それは自分にとっては、何よりもかけがえのないものになっていた。何よりも、大切なものに…なっていた。


気付いていた。始まりが、終わりだということを。新しい世界が始まる瞬間、『今』が終わることを。
『アイク、少しでいいから覚えていてね』
この世界を元に戻すという大きな使命を果たした瞬間、この小さな存在が消えることを。
『私の事、覚えていてね』
分かっていた。けれども歩みを止めることはできない。こんな個人的な感情のために。けれども。
『心のどこか小さな場所でいい…私を覚えていて……』
けれども、その感情が何なのか気づいた瞬間に。その瞬間に、願ってしまった。このまま、と。このまま、この手を離したくないと。


――――それは、罪なのか?そう願うことは…許されないことなのだろうか?


微笑った顔がひどく無邪気で、そして綺麗だったから。哀しいくらいに、綺麗だったから。だから、そっと抱きしめた。腕の中にすっぽりと納まる小さな身体を、抱きしめた。そのまま閉じ込めたいと、思った。このまま閉じ込めて、何処にもいかないようにと。
「…ユンヌ…俺は……」
あの時、伝えればよかったのか?心に沸き上がる想いを。この想いを言葉にすれば、良かったのか?どうにもならないと分かっていても、それでも。それでも、告げるべきだったのか?
「…俺は…あんたが……」
けれども、それをあんたは許してくれない。思いを言葉にすることを、決して。それはあんたの優しさだ。まだ戻れるようにと、この気持ちが別のものへと変化するようにと、そう願うあんたの優しさだ。でもそれは。それは残酷な、優しさだ。だって、消えない。だって、変わらない。この気持ちは、別の想いへには、どうやったって変わらない。


目を閉じてみる夢は、あんたの笑顔で。
『アイク、好きよ』
最期に見せた哀しいほど綺麗な笑顔で。
『貴方が、好きよ。この気持ちは』
どうやっても、その笑顔が消せないから。
『この気持ちは私だけのものだから』
どうやっても消えないから、どうすればいいのか分からない。


―――無邪気に、ただひたすらに無邪気に微笑っていてくれたら、こんなにも苦しくはなかった。




「…あんたが…好きだ…ユンヌ……」




言葉は風に流れてゆく。そっと風に流れてゆく。それは何処にも残らない。告げたい相手は何処にもいない。誰かに聴かれることもない。ただこの場所に零れ落ちて、静かに消えてゆくだけだ。それでも。それでも、声に出さずにはいられなくて。
「…好きだ…ユンヌ…あんたと一緒に……」
あの時ただひたすら無邪気に微笑ってくれていたら。本当に心の底から微笑っていてくれたならば、この想いを浄化出来たかもしれない。あの時何の迷いもなく、微笑っていてくれたなら。
「…一緒に…この世界で…生きたかった……」
でも、あんたは一生懸命に微笑ったから。これ以上涙がこぼれないようにと、懸命に微笑おうとしたから。哀しいほどに綺麗な瞳を、向けてきたから。


―――だから、消えない。最期のあんたの哀しい笑顔が…消えない。


何処にもいないあんたを、ずっと探している。俺の心の奥にある小さなあんたを。
『…アイク、貴方の真っ直ぐな瞳が…私を……』
どんな些細な小さな破片でも、見逃さないようにと。決して見逃さないようにと。
『私を、迷わないように導いてくれる。だから、平気』
この腕の中に残るぬくもりを。指先に伝わった熱い涙を。耳元に残る柔らかい声を。
『平気、だよ。私はどんなになっても、幸せな気持ちで眠れるから』
全部、覚えているから。全部、俺が持ってゆくから。全部、全部。だから。


――――微笑ってほしい。無邪気な笑顔で、微笑っていてほしい。


何処にも、いない。もう何処にも、いない。この世界のどこを探しても『あんた』はいない。でも『あんた』は何処にでもいる。どの場所でもいる。この世界の全てが、あんただから。そして俺の中に、決して消えることなく存在している。この腕に、この指先に、このこころに。


この地上があんたそのものだというならば、俺は全てを賭けて、この地上を護ろう。それが俺に出来るただひとつの、あんたへの愛し方だから。